山根 達郎(准教授)
2026年5月の終わり、私は所用で新潟市を訪問する機会を得た。その際、太平洋戦争末期の空襲被害にまつわる歴史的戦争モニュメントに一人で訪れた。今回のコラムでは、このモニュメントを題材に、新潟市で起きた当時のことを振り返りながら、平和について個人的に考えたことを記したい。
今回、足を運んだのは、「軍用船宇品丸慰霊塔(以下、慰霊塔)」である。信濃川河口(新潟西港)西岸付近の公園内にある慰霊塔は、昭和20(1945)年8月10日の昼頃に新潟市街が受けたアメリカ軍機による空襲に対し、河口付近で応戦をした「宇品丸」乗組員の死没者を悼むために、戦後、地元の住民らによって建立された。新潟市が作成した資料によれば、当日の空襲により市街の石油関連施設が置かれた地域や、一部の居住地域で被害が出たほか、港湾地域で複数の船舶が被弾し、その結果、市内で47名(内、民間人29名、兵士18名)の死者が出たという(新潟市 1998: 113)。その「新潟空襲」の1か月ほど前、軍用船として朝鮮半島より食料物資を運搬し新潟市の港に向かって航行中であった宇品丸は、入港直前の辺りで触雷し、爆発に続いて船底からの浸水が始まったが、沈没を回避するために全速で陸を目指し何とか辿り着いた河口の浅瀬で座礁していた(新潟市 1998: 88)。座礁後も宇品丸には乗組員150名ほどが船内で引き続き過ごしていたが、8月10日の新潟空襲に見舞われ、そのうち19名の命が失われたのである(新潟市 1998: 106-107)。
慰霊塔の碑文を読むと、攻撃を仕掛けるアメリカ軍機に向けて、武装した宇品丸が船上から対戦し続けたことで、市街や港湾への爆撃被害が抑えられた旨が記されている。住民らは、宇品丸が新潟市を守ってくれたという思いから、昭和29(1954)年に慰霊塔を建設し、死没者の慰霊を始めたのである。また、慰霊塔は今も大事にされ、平和学習の場としても活用されており、地元のボランティア団体らが戦争の歴史と世界平和への願いを語り継いでいる。新潟空襲では、港内にいた客船「おけさ丸(佐渡汽船)」の民間人犠牲者も多く、佐渡と新潟をつなぐ路線として馴染みのあった客船に起きた惨事も市民の間でよく知られていた(新潟市 1998: 111)。しかし、新潟空襲の話を戦後に残す公的なモニュメントは不在のまま時代が過ぎていった。こうした中、戦災の記憶が薄れていくことを懸念した新潟市は、平成10(1998)年8月10日、慰霊塔から数百メートルほど離れた水戸教公園内に、戦災の歴史を後世に伝える平和の象徴として、「平和祈念碑」を設置した。「8月10日」に除幕したこの平和祈念碑であるが、その意味するところは新潟空襲の被害者の慰霊のためだけというわけではなく、世界の恒久平和を願うためにあるという。そのため、毎年新潟空襲の日に合わせて、平和祈念碑を前に、「第二次世界大戦で亡くなった人々に対し深く哀悼の意を表し世界の恒久平和を祈念」(新潟市ウェブサイト n.d.)し、新潟市主催の平和祈念碑献花式が執り行われている。
ところで筆者はこの新潟市で生まれ育ったのだが、子供の頃を思い出してみても、学校や日常生活の中でこの宇品丸の件について教わる機会はなかったと思う。昭和45(1970)年生まれの自分が新潟の戦争被害について知っていたことといえば、新潟県の内陸にある長岡市が大規模な空襲を受け、そのために多くの人たちが亡くなったことぐらいであった。太平洋戦争では新潟県出身の若い兵士たちも多数出兵したが、自分の家族や親戚にはその時の兵役に就いたという世代の人は偶然にもおらず、県民戦没者が奉られている地元の護国神社に行った記憶もない。子供の頃の記憶に残る戦争のインパクトと言えば、物心がつく頃から夏になるとテレビのブラウン管から太平洋戦争時の記録映像が放映され、そこから押し寄せる悍ましさのことであった。広島・長崎の原爆投下の記録映像もその一つであり、また、広島で執り行われる平和記念式典のテレビ中継も幼少期の自分の心象風景に強く残っている。確か、私が中学1年の頃であろうか、近隣小学校の体育館で希望する町民向けに上映された当時のアニメ映画『はだしのゲン』を観覧に行ったことも覚えている。
その後、大人になってから、ヒロシマ・ナガサキの原爆被害の甚大さを思うとき、当時のアメリカによって、ある時点まで投下の候補の一つに挙げられていた新潟市の戦時下とはどのようなものであったかに、望郷の念を抱く一人として関心を持つようになった。お盆の頃、故郷の海岸や信濃川河口の風景を眺めるような時には、日本海に沈む美しい夕日の光に溶け込みながら考える。例えば、物流を阻止することを目的に当時のアメリカによって撒かれた機雷による人的被害は戦後も続いたそうだが、これにより犠牲となった人々とその家族はどのような気持ちであったのだろうか、あるいは、戦中に新潟市内にも捕虜収容所が設置されていたそうだが、その中で苦役を課されていた外国捕虜の人々の心理はどのようなものであったのだろうか、などについて思うのである。同時に私は、原爆投下が起こらなかった都市としての新潟市に何が起きていたのかについても、ますます気になってしまうのである。
長らく広島に住み続けている自分が離れて久しい「故郷」を訪れる機会は人生の残りであとどれくらいなのであろうか、とふと思うような年齢になったということか。慰霊塔に参ったとき、敷地となっている公園の芝生が隅々まで整備されながら青々と茂り、それが朝方の鮮やかな快晴の空とまぶしいほどにコントラストを描いていた。そして、そこから海辺の方向に続く道を少しだけ歩いてみれば、見えはしないが防砂林の向こうに広がる日本海の存在を感じ取ることができた。こうした平和の情景は、当時の新潟市における戦争とは真逆の姿であったのだと思わざるを得なかった。そこで、原爆が落とされた広島・長崎と、落とされなかった新潟との双極を、私は頭の中で何かの形にして可視化してみせようと沈思するのである。
「原爆疎開」というものがあったと知ったのは、いつのことであったろうか。新潟空襲があった8月10日、当時の新潟県知事・畠田昌福氏が、次の新型爆弾の投下が新潟市に向けられるのではないかと考え、新潟市民に向けて疎開を至急始めるようにと、後に「原爆疎開」と呼ばれる知事布告を同日付で発したのである。新潟市は、戦時の港湾機能も充実していた都市であったにもかかわらず、他の空襲被害都市と比べて受けた攻撃規模が極めて小さかった。実際に一時期原爆投下の候補地となっていたことは後年になって明かされたことだが、当時の人々の状況判断に基づいて、知事をはじめとする県幹部の間で「新型爆弾」投下へのリスク認識が最大に高まり、そのために即座の知事布告がなされ、さらには市民が「原爆疎開」に応じた。2025年に出版された鈴木裕貴氏による著作『落とされなかった原爆—投下候補地の戦後史』によれば、知事はじめ県幹部が集まる会議は8月10日の午後に緊急開催され、即座に布告が作成されたという(鈴木 2025: 83)。上述したとおり新潟空襲が起きたのはその日の昼頃のことであったというが、では、役所の中で空襲事案と緊急疎開の案件との間でどのような議論があったのだろうと興味が湧く(資料がどこかに残っているならぜひ知りたいとも思う。)。なお、鈴木氏によれば、知事会議の緊急招集による疎開決定は、(広島と同様に)新潟市が絨毯爆撃を受けておらず次は新潟ではないかと考えていたところ、調査のために派遣されていた県職員が東京の内務省関係者より独自に得た広島の深刻な被害についての報告が決め手となったようである(鈴木 2025: 82)。
布告による公的な指示では翌日の8月11日から各町内会にて対応という段取りであったようだが、実際には布告当日の夜からその情報が一般の人々に広く漏れ、市民による疎開の行動はすでに始まっていたという(新潟市 1998: 124-125)。既に他界した私の父母や祖父母らも経験したであろう原爆疎開や新潟空襲のことを彼らにもっとしつこく聞いておくべきであったと悔やむばかりである。結果、私自身は戦争の体験や経験を身近な人から受け取る機会を失った。しかし、原爆や新潟空襲の危機を免れた彼らが生きたことで、次の世代の私が今、生きているわけであり、くしくも広島で平和のことについて考え、同世代の仲間や次世代の学生とともに議論を続けている(自分の学問的関心は、このエッセイの内容とは別で、国際関係論の立場から現代の武力紛争の特質や紛争後の平和構築の分野に向けられている。)。平和について、生きて、考えて、つなぐという人間にとって大切なことを、今回の慰霊塔への訪問で考えさせられたところである。
【参考文献】
鈴木裕貴(2025)『落とされなかった原爆—投下候補地の戦後史』中央公論新社
新潟市編(1998)『戦場としての新潟(新潟歴史叢書2)』新潟市
https://web.d-library.jp/niigatalib/g0102/libcontentsinfo/?conid=501678
新潟市ウェブサイト(n.d.)「平和祈念碑について(2023年7月14日最終更新版)」(2026年6月30日アクセス)
https://www.city.niigata.lg.jp/kurashi/danjo/jinken/heiwakatsudo/shiryou/heiwa_kinenhi.html