大下 隼(講師)
「IAEA」と聞くと、どんなイメージが浮かびますか?
多くの方が、核兵器をこれ以上拡げないために活動している国際機関だと思われるでしょう。ニュースでIAEAが「国連の核の番人」と紹介されることもあり、日本・東京に地域事務所が置かれているのもそのためです。
他にも、正式名称はInternational Atomic Energy Agency(国際原子力機関)、ウィーンに本部がある、日本人がトップだった(2009-2019年まで故・天野之弥氏が事務局長を務めました)、といったことを知っておられる方もいるかもしれませんが、今回取り上げたいのはIAEAのもうひとつの顔です。IAEAは持続可能な開発目標(SDGs)の達成に向け、病院や農場、海といった身近な場所でも活動しているのです。たとえば、韓国・大田(デジョン)にある RCA地域事務所は(RCAは「地域的協力協定(Regional Cooperative Agreement)」の略称)アジア・大洋州諸国がIAEAのもとで協力する仕組みを支えています。各国の研究機関や大学、現場の専門家をつなぎ、IAEAの貢献を地域全体に広げていく役割を担っており、日本もこの枠組みに深く関わってきました。
そこで本稿では、あまり知られていないIAEAの「もうひとつの顔」を、SDGsの目標ごとに紹介していきます。
●農業を守る(SDG2:飢餓をゼロに)
IAEAが農業に貢献する代表例が「不妊虫放飼法(SIT)」です。これは、害虫を放射線で不妊化して野外に放つことで虫の数を減らす方法で、農作物の被害を防ぐことができます。日本でも沖縄でゴーヤなどのウリ類を荒らしたウリミバエを根絶することに成功しました。農薬など化学薬品に頼らず持続的に害虫を管理できる点が大きな利点です。アフリカでは人に病気をうつすツェツェバエ、中南米では家畜に寄生するハエの制御にも活用されています。
●健康と福祉を広げる(SDG3:すべての人に健康を)
がんの放射線治療はIAEAのSDGs活動のなかでもよく知られたものです。アフリカの約半数の国々には、かつてがん治療を行える病院が一つもなく、がんにかかると治療の機会がなく亡くなる人が多くいました。これを踏まえてIAEAは近年、放射線治療設備の整備や医師・技術者の育成といった能力構築に力を入れています。
また、2020年以降の新型コロナ流行時には、各国にPCR検査機器等を提供し、感染を早く見つけて広がりを防ぐ力をつけられるよう支援しました。これは今後、同じような感染症が発生したときに各国が早期対応できる基盤となっています。
●「水の指紋」でたどる水の旅(SDG6:安全な水とトイレを)
水は見た目には同じに見えますが、水には重い水素や重い酸素などの種類(同位体と呼ばれます)があり、その割合が少しずつ異なります。これを分析すると、水がどこから来てどのような経路をたどったのかを知ることができます。この技術は「水の指紋」分析と呼ばれ、地下水の汚染源の特定や水資源の持続的な利用計画に活用されます。日本でも、山あいの湧き水が災害時に安定して利用できるかどうかを確認するために用いられています。IAEAは特に水不足が深刻なアフリカ地域でこの技術を普及させるため、奨学金制度や日本とアフリカの協力プロジェクトを支援しています。
●「こわさずに中を見る」検査(SDG9:インフラ整備)
地震や津波のあと、建物や橋が残っていても、そのまま安全に使えるかどうかは別問題です。IAEAが提供する「非破壊検査」の技術は、放射線を当てて建物や橋の内部を透視し、ひび割れや劣化を確認することができます。この技術は日本やネパールでの地震後の被害評価に使われたほか、橋や鉄道などインフラ全般の安全確認にも役立っています。「こわさずに中を見る」ことで、被害の見えない部分まで把握し、安心して暮らせる社会づくりに貢献しています。
●海の汚れを「見える化」(SDG14:海の豊かさを守ろう)
IAEAは物質に含まれるごく微量な成分を分析できるため、海水中の重金属や放射性物質などの汚染を高精度で調べることができます。モナコにあるIAEA海洋環境研究所は、福島第一原発事故後の海洋放出水の分析支援も行いました。また、ヨーロッパの宝石として知られるアドリア海の水銀汚染調査など、国際的に重要な海洋環境問題の科学的解明にも大きな役割を果たしています。
以上のようにIAEAの活動を振り返ると、病院、農場、海など、私たちの生活の多くの場面に関わっていることがわかります。IAEAは「核兵器の監視機関」にとどまらず、人々の暮らしと福祉を守る役割を担っているのです。
アルベルト・アインシュタインは、科学は手段を生み出すが、それをどう使うかは人類の倫理と判断にかかっていると述べています。IAEAの「もうひとつの顔」は、科学技術が何を可能にするかと同じくらい、それをどう用いるかが重要であることを私たちに思い出させてくれます。