権妍李(梨花女子大学 梨花社会科学院 研究員)
1.広島発「平和学」の現場にたつ
広島市立大学広島平和研究所でフェロー(HPI Fellow)として過ごした時間は、筆者にとって初めての広島訪問でもあった。川端康成の「雪国」ではないが、市立大学前バス停からバスに乗り、「沼田の長いトンネルを抜けると平和都市であった」と言いたくなるほど、広島市立大学は市内から離れている。そのおかげで、広島にいながらも、広島を距離を置いて眺める時間を過ごすことができた。
近代以来、日本の軍事戦略的要地、軍都であった広島は、戦後、平和都市として生まれ変わった。全市を挙げて反核平和運動が展開される中で、広島の市民運動、市民社会の役割とは何だったのかを考える。
「平和、平和、平和」。戦後日本に平和国家としてのアイデンティティを持たせたのは、広島と長崎の原爆であった。広島に着いた瞬間、他の地域ではなかなか感じられない独特の地域性が強く伝わってきた。原爆の痕跡を乗り越えた素晴らしい市内の景観は、広島城と相まって見事な調和を成している。「国際平和文化都市」、それが広島である。しかし、素晴らしい景観と穏やかな街並みにふさわしくない「反核」や「核兵器禁止」などのスローガンが普通に目に入る。その不自然な共存から、独特な印象を受けたが、それこそが広島がそのアイデンティティを失わないために努力してきた証拠であろう。
広島市立高女の慰霊碑の正面には、少女が「E=MC2」というパネルを持っている場面が彫刻されている。動員され、被爆し、亡くなった女子高生の命を悼むための工夫で、GHQ占領下では被爆の惨状を公にすることができなかったという背景がある。この慰霊碑から、広島の不自然さを感じるのは、「原爆」や「核兵器」など、国際政治のハイ・ポリティックス(high-politics)の側面が一般市民の生活に根を張り、共存してきたからだ。宿命のように反核平和を叫んできた広島を、単純に中央政府に対抗する運動ではなく、「生活者」として見つめるべき所以である。
初めて広島を訪れた筆者にとって、広島や長崎を「生活者」の視点から見るべきだという認識が生まれたのは、普通の人々の話が耳に入ってきてからである。広島市の職員の話によると、広島に住んでいる人々の中には、被爆を経験した人がいる家庭(遠い親戚でも)が珍しくないという。それほど広島で被爆の現実は日常的に接するものなのである。被爆者である沼田鈴子さんの遺品展を見て、結婚を控えていた若い女性が、被爆によってその夢を奪われ、その後、被爆体験を伝える語り部として生涯を過ごしたという話を知った。彼女は世界各地を巡り、広島の平和のメッセージを伝える人生を歩んできたのである。今、広島では被爆者の高齢化が進む中、被爆体験を次世代に継承・伝承することが市を挙げて重要な事業となっている。
2.広島市民運動の原点と変容
広島は第二次世界大戦中、戦争遂行のための重要な機能を果たしていた。日露戦争の出発地でもあった。戦争遂行の役割を担っていた広島は、「原爆」以来、反核平和運動の聖地として、中央政府や日本社会に対して異議を申し立て続けてきた。歴史のアイロニーは、かつて戦争遂行の先兵としての役割を果たしていた広島を、反戦・反核のメッセージを発信する聖地へと変貌させたのである。
原爆という「事件」は、戦後日本のアイデンティティを形成する以前に、広島のアイデンティティを形成した。単に、「日本のアイデンティティ」ではなく、「広島のアイデンティティ」と言及するのは、広島が日本の中で持つ特殊な立場からである。敗戦直後、GHQの占領政策によって被害の惨状を公に語ることができず、さらに講和条約以降、広島は中央政府に対して被害補償を求める闘いを強いられる宿命を抱えていたからである。
戦後史の中で特殊なアイデンティティを抱えてきた広島は、存在そのものが中央政府や国際社会、そして世界に向けて「核」と闘い続ける運動体でもあった。戦後の反核平和運動は、原水禁や原水協の運動が理念や政治的立場によって分裂した結果、一般市民が参加を忌避するようになったという教訓を残した。だが、時が経った現在、広島のあるNGO関係者によれば、推算ではあるが、広島市内で「平和」分野において活動している団体は約1,500にも上るという。これほど広島では平和運動が盛んに行われている。
3.脱「政治化」されつつある「平和記念式典」の風景
広島平和記念式典では、平和をめぐる広島の分裂像が浮かび上がった。平和記念公園では拡声器を使った演説や太鼓を打ち鳴らし、アピール行動を展開した反戦・反核団体もあった。昨年の式典では、もめ事の過程で負傷者が出たため、今年は入場の際のセキュリティチェックが二重に強化された。平和記念式典を巡る市民社会の分裂像は、平和を巡る日本社会内の意見も決して一つではないことを示している。左派から右派に至るまでイデオロギー的スペクトラムにより、物事に対する見解も異なってくる。問題は、このように多様な見解をどうまとめるかという点である。
長崎の平和祈念式典では岸田首相が出席し、挨拶の言葉を述べていた。筆者はその日、インターネットで地域放送局が生中継する映像を見ていたが、首相のスピーチが始まって3~4分で中継が終了する場面を目撃した。式典の次のプログラムが始まると中継は再開された。これに何かしらの抵抗や拒否の表明が感じられた。実際、中継映像のコメント欄には、岸田首相の核政策や増税に対する反対や批判のコメントが多数寄せられていた。
4.新しい世代の登場と今後の平和運動
広島では原爆による被害への補償運動から人道的運動に至るまで、多様な運動と団体が重層的かつ複合的に存在している。一つの運動が終わり、別の運動が始まるという短編的な形ではなく、これらの運動は同時に存在し、重層的、複合的、同時多発的に展開されている。
広島の市民社会には過去の運動のレガシーが経路依存的に残っている。歴史的制度論では、過去の経路依存性から抜け出すためには画期的な事件や変革が必要だとされている。それが起きない限り、既に形成された経路から抜け出すことは難しいという見解である。広島から発信される平和への努力も、閾値を超えることで初めて新しい経路を形成する決定的分岐点を迎えるだろう。広島が発信する平和のメッセージは、その歴史的な特殊性に基づき、多様な層に受け入れられて初めて普遍性を獲得するだろう。「核兵器に対して広島とは異なる見解を持つ」日本政府、「原爆を解放と認識する」東アジア、そして「戦勝国の論理が現存する」欧米を説得することは、広島と長崎に与えられた課題である。
北朝鮮の核・ミサイル発射、ロシア・ウクライナ戦争、イスラエル・パレスチナ戦争など、核を巡る国際社会の議論が抑止力の論理を強化する方向に動いている時代に、市民社会はこれまでの運動のレガシーを基盤に、新たな方向性を模索する必要があるだろう。
新しい形で地域の政治家に「核」政策の現状を突きつける若者たちの動きが、変革につながる決定的分岐点になるかは、研究者にとっては興味深いテーマである。「長いトンネルを抜ける」と、繰り広げられる雪国の風景のように、「ヒロシマ」という有形無形の境界を乗り越えるとき、新しい世界を迎えることができるだろう。