忘れられないところで、最後まで守りたいことを考えるー広島で平和憲法を省察しながらー

キム・スジン(広島市立大学 広島平和研究所 HPIフェロー、法学博士)

1. はじめに―同じ場所、違う感情

初めて広島と縁を結んだのは2018年2月、日本国際交流基金の学術分野研修期間中に原爆ドームと広島平和記念資料館を訪問した時だった。特に、最後に訪れた宮島の美しい風景と私のそばをうろついていた鹿の息遣いと瞳を今でも忘れることができない。そして博士号を修得して研究のために再び広島に到着したのは2023年10月のある日。その日、広島市立大学を取り囲む赤と黄色に染まった紅葉のグラデーションと、その間に映る日差しはとりわけ美しく、それは韓国では感じられなかったユニークな日本の秋の風景に近づいてきた。

そして数日後、広島平和記念資料館をもう一度訪問した時、特に原爆ドームを近くで眺めながら、ふと広島に来ることになったのは偶然ではないかもしれないと思った。なぜなら、唯一の分断国家である韓半島に住みながら、分断された現在の状況といつかは成就する統一に対する乖離感で私はいつも心が複雑だったからだ。それは憲法研究者としての必然的な悩みなのかもしれない。その中で特に「平和」という単語を思い浮かべると、私の考えの糸はより絡み合ってしまう。その理由は果たして何だったのだろうか。考えてみると、その理由は私の研究分野である「平和憲法」との関連性にある。なぜなら、平和憲法の土台が原爆であり、その原爆の根源地がまさにここ広島だったからだ。これからは原爆の根源地であり、平和憲法の誕生地で、私は深い省察の時間を持とうと思う。

2. 広島で平和憲法の意味は秘められているか色褪せているか

2023年5月19日から5月21日まで広島でG7首脳会議が開催された。韓国の大統領は招待国として出席し、韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝した。特に、ロシアの侵攻で戦争を繰り広げているウクライナのゼレンスキー大統領が特別招待され、首脳会談に対面参加したことが記憶に残る。ゼレンスキー大統領としては、戦争が始まって以来初めて対面での多国間協議への出席だ。ウクライナでは戦争が続いているが、その中でも平和を追求する姿に突然、戦争と平和の両面性が浮かび上がり、頭の中が複雑になった。

そして再び過去に戻り、1945年8月6日午前8時15分。広島に投下された原子爆弾は約14万人の命を奪った。当時、広島全体の人口は約35万人だった。それから3日後、長崎にも原爆が投下され、約7万4000人が犠牲になった。このような広島と長崎の犠牲をもとに作られたのが「戦争しない国」を明記した「平和憲法」だ。しかし、あれほど守ろうとしていた平和憲法の意味が依然として残っているのか。今原爆の悲劇が忘れられないここ広島で最後まで守りたい平和憲法に対する深い省察と反省の時間が必要だ。

戦後、日本は「平和憲法」を通じて戦争遂行能力を放棄した「平和国家」のイメージを国際的に固守しており、被爆者の存在は平和国家である日本を代表する象徴的位置を占めていると評価できる。特に被爆者は「世界唯一の戦争被爆国」という大衆的意味と共に平和国家、日本がアジア・太平洋戦争の加害者ではなく被害者である国家叙事を形成するのに重要な役割を果たしている。

依然として存在する核戦争の脅威、原発事故の事例を考慮すると、核災害を体で体験した被爆者は最悪の未来をすでに経験した人類と見ることができる。したがって、広島、長崎の被爆者は核の惨禍を経験した人々として、日本はもちろん国際社会でも反核平和の直接的象徴と言えるだろう。これと関連して、日本の市民社会は2023年現在11万人台に減った被爆者の高齢化を憂慮し、証言者が減ったりいなくなったりする可能性があり、反核平和運動と平和国家日本の外交安保の政策的変化を憂慮している。

3. 平和憲法の本来の意味

日本の近代は戦争で点綴された歴史だった。明治維新に象徴される近代化の成功後、日本の歴史は戦争の連続だったと表現できる。つまり日清戦争を皮切りに日露戦争、第1次世界大戦、満州事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争につながった。そして続いた戦争の中で最後の戦争だったアジア・太平洋戦争は日本が唯一敗北した戦争であり、日本本土まで被害を与えた戦争だった。しかし逆説的にもこの戦争を契機に、日本は戦前の天皇主権国家から国民主権の民主国家に変貌し、急速な経済成長を遂げた。敗戦直後、日本国民は戦争の残酷さから平和をより強く追求するようになり、平和主義は戦後日本のアイデンティティとして定着した。

具体的に憲法第9条の平和憲法、専守防衛原則、武器輸出3原則、非核3原則のような非軍事化規範の確立は平和主義の具体的な姿といえる。憲法的側面から見れば、1946年に作られた日本国憲法は憲法前文に全世界の国民が恐怖と欠乏から抜け出し「平和の中で生存する権利」があると規定し、これを裏付けるために第9条に非武装平和主義を規定している憲法的構造を見せている。

もちろん敗戦直後の状況から見て、平和憲法は日本民衆の平和に対する熱望によるものでも、支配層の戦争責任の自覚と反省によるものでもなかった。平和憲法はポツダム宣言の履行を目標に日本を占領した米軍政の占領政策と国体護持を至上課題とした日本支配層、そして天皇制維持に否定的な国際世論および日本国内の批判勢力間の現実的力学関係の産物として登場したことは否定できない。

当時、日本国民はこの憲法案の絶対的平和主義と戦争放棄条項を歓迎し支持する態度を見せた。それは日本国民の戦争に対する否定的なイメージと記憶、そして軍国主義に対する反発のためだった。何より平和憲法は、その成立過程の側面で、日本が戦争の責任を自覚し、二度と侵略者にならないというアジア国家と国民に対する誓約と国家の自衛権から脱し、国民の平和的生存権を重視する態度に転換するという意味だ。前者は日本の歴史的特殊性を反映した処罰的意味であり、後者は過去の「武装平和」または「軍事力による平和」の観念を否定し、今後「平和的生存権」の理念を先駆的に樹立・確立していく決意を表明したものであり、平和に対する世界的普遍性に基づくものといえる。

4. 最近の平和憲法の変化とその評価―日本は依然として平和の使徒なのか

軍国主義の基礎を形成した天皇制の維持と戦争の放棄という二律背反的な要素が共存していたにもかかわらず、新しい日本国憲法は日本国民の支持の中で登場し、平和主義に対して大多数の国民は賛成した。

このように日本国憲法に占める平和主義の位置が非常に重要であるにもかかわらず、これに対する懐疑的な声がなくはない。非武装平和主義が行き過ぎた理想論だという主張、平和主義が外部から強要された外来思想だという主張がその代表的な例だ。何より平和主義が外部から強要されたという主張は、憲法第9条を改憲して戦争が可能な国家に回帰しようとする動きにつながり、平和憲法を擁護する人々から多くの反発を買っている。

日本の憲政史を見ると、制定されて以来一度も憲法を改正せずに現在に至っている。しかし、このような平和主義関連条項を改正しようとする動きと、これを守ろうとする平和愛好勢力間の一進一退の激しい攻防戦は現在も続いている。これは憲法が政治の裏側にあった大韓民国の憲政史と比べてみると、日本の場合、憲法が政治史の主舞台に存在することと深い関連性がある。

平和憲法改正の核心は自衛隊の国軍への転換であり、第9条の改憲を迂回するために憲法改正の手続きを規定した憲法第96条を先に改正することを提案したのだ。これは違憲的要素である自衛隊を憲法合致的存在に格上げしようとする試みと見る見解もある。もはや日本は平和主義憲法の先駆的モデルとして世界平和に貢献するのか、それとも軍事大国化の論理に退廃して過去に回帰するのかという重大な岐路に立たされているのだ。この時点で、日本が依然として平和の使徒なのかに対する疑問と残念さが交差する。

5. 終わりに―宮沢俊義を思いながら

率直に言って、私は憲法研究者として平和憲法に憧れている。それは私の研究分野である統一韓国の統一憲法の在り方ないし指向点が常に平和憲法であることを願ってきたという点と深い関連性がある。この考え方に対しある人は非現実的で理想的だと批判し、別のある人はむしろ平和憲法国家を放棄して軍事強国になるか、核武装国になる方がより良い選択だと主張する。それにもかかわらず、私はこの時点で「8月革命説」で私たちによく知られた憲法学者宮沢俊義が第9条について説明した次の言葉で頭の中がいっぱいになる。

「世の中から戦争をなくすためには、全ての国が絶対に戦争をしないと決心する必要がある。しかし、そのような決心だけでは十分ではない。数多くの軍隊と軍艦、飛行機で戦争をしないと約束するのは話にならないからだ。本当に戦争をしないと決心するなら、軍隊は必要ないので、軍隊をすべてなくす必要がある。… このような考えから、憲法第9条で戦争を放棄した。… 戦争を放棄するということは第一に、戦争を否定するということであり、侵略戦争だけでなく自衛戦争も放棄するという意味だ。第二に、武力行使や脅威も放棄するという意味だ。第三に、軍備を撤廃するという意味だ。」

上記の言葉を振り返りながら、忘れられないここ広島で最後まで守りたい平和憲法に対する省察の時間を持てるように研究の機会をくださった広島市立大学広島平和研究所の大芝所長、惜しみない助言と助けをくださった広島平和研究所の先生方、到着した日から様々な行政手続きと便宜を提供してくださった秋嶋様と学校関係者の方々、最後に同じ生活空間で私の日本語向上と日本生活に活力と喜びになってくれた広島市立大学芸術学部1年の晶紀さんに心を込めて感謝の気持ちを伝えたい。そしてもう一度原爆の犠牲者と被爆者に対して深い哀悼の意を表する。