混迷する平和秩序規範ー領土保全と人民の自決の規範相克の100年ー

吉川 元(特任教授)

世界を震撼させたロシアのウクライナ軍事侵攻。世界大戦や核戦争に発展しかねない核大国ロシアによるウクライナ侵攻は、「人民の自決権」を盾に失地回復を目的とする新手の侵略戦争である。

セルビア正教の聖地コソボをめぐるアルバニア人とセルビア人のコソボ紛争、アルメニア人の飛び地でもあったナゴルノ・カラバフの帰属をめぐるアルメニア人とアゼルバイジャン人のナゴルノ・カラバフ紛争、昨年秋から勃発した、ユダヤ教、キリスト教、およびイスラム教の聖地エルサレムにまつわるガザ・イスラエル戦争、そして今もって先の見えないロシアのウクライナ戦争、冷戦の終結から今日に至るまで、「固有の領土」や「聖地」をめぐる武力衝突が発生している。「固有の領土」や「聖地」の奪還を口実に失地回復を試みたり、国境の変更を言い出したりすれば、際限のない領土紛争の深みにはまることになる。「固有」の起点を、いったい、いつの時代にまで遡ればよいというのか。イラクのクウェート侵攻に際して、イラクのサダム・フセイン大統領(当時)は、クウェートはもともとイラク領であり、取り返しにいったまでのことだ、とクウェート侵攻を正当化した。その傍らで、隣国トルコのトゥルグト・オザル大統領(当時)は、そういうのであれば、イラクは、もともとトルコ領であったのだが、と皮肉ったものである。今年の2月8日に公開されたアメリカのFOXニュースの元司会者タッカー・カールソンとのインタビューで、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ウクライナは歴史的にロシアの領土であり、ウクライナを取り戻すことが目標であると、ウクライナ戦争を正当化したが、こうしたプーチンの主張に対して、隣国モンゴルのツァヒアギーン・エルベグドルジ元大統領はロシアがモンゴル帝国の一部として描かれているモンゴル帝国時代の地図をSNSに投稿し、プーチンの主張を皮肉った。聖地を持ち出せばパレスチナ紛争とて同様である。とはいえ、その聖地から追放されたのは二千年も前の話であると聞けば、固有の領地や聖地の奪還の主張はきりのない話に思える。

現代国際関係の平和秩序の基調を成す主要な規範といえば、主権尊重とともに、領土保全規範と人民の自決規範である。中でも領土保全と人民の自決の両規範は、前者が国家の領域的枠を保障しようとする規範であるのに対して、後者は国家のガバナンスの有り様と、その安全を保障しようとする規範であり、両規範は競合関係にはないはずであるのに、一体いつからガバナンスを問う人民の自決権が民族独立に成り代わって失地回復の根拠となるような規範解釈がまかり通るようになったのか。

国家から独立して自前の国を持ちたいと考える人たちがいる限り、領土的一体性は外部侵略のみならず、分離独立という内部脅威にもたらされることになる。19世紀後半、特に20世紀に入って東中欧やバルカン半島を中心に欧州各地で民族主義運動が高揚した頃、民族独立を正当化する「民族自決」の規範起業家がいた。ボルシェビキの指導者ウラジーミル・レーニンである。第一次世界大戦の勃発直前に書いた『民族自決について』において、レーニンは、民族自決とは被抑圧民族が国家から分離独立し、自立した民族国家を建設することを意味すると述べ、また別の論考では民族自決権というものは民主主義の原則に基づいた要求であるので人民投票によってその権利を行使すべきだ、とも論じた。

ところで民族の自決は、レーニンの発案ではない。もともとフランス革命の際に君主(王)に代わって国民が自分たちで国を統治するという意味で用いられ、その後、1世紀近くの眠っていたこの「国民の自決」なる概念をレーニンが呼び覚ましたのである。もっとも「民族の牢獄」と言われたロシア帝国では皇帝や君主に代わって自決権の主体となるべき「国民」が統合されていなかったことから、ロシアや東中欧の多民族国家で「国民の自決」は、事実上、「民族の自決」を意味するようになったのも道理にかなっている。

第一次世界大戦中、アメリカやイギリスの戦争指導者が戦争を勝ち抜くための戦略として民族自決を呼びかけたことも奏功し、第一次世界大戦後には多民族帝国のオーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国は崩壊し、帝国の跡地に民族自決の政治原則に基づいていくつもの民族が独立した。しかし、独立を果たした民族国家はどの国とて単一民族の国家ではない。さらなる民族自決が予測され、他国の民族問題への干渉による失地回復戦争や民族紛争で国際政治が混乱することが懸念された。それ故に、戦後の国際平和秩序を構想した国際連盟は、国際政治史上、はじめて領土保全規範を国際規範の一つに位置づけ、加盟国の「領土保全」と「政治的独立に対する外部侵略」に対して集団的制裁をもって戦争を予防しようとした一方で、少数民族の国際保護レジームを創って国際社会で少数民族を保護することで民族紛争を予防しようとした。こうした取り組みに加え、民族紛争の予防策として係争地の国境を住民投票の結果に基づいて国境線の再線引きを行うという慣行、また国境線の両側に存在する少数民族を双方向で交換するという住民交換という慣行も始まった。

こうした民族紛争の予防の取り組みにもかかわらず、ナチ・ドイツが民族保護を逆手にとって周辺国のドイツ系住民の保護を口実に領土拡張に走ったという苦い経験もあり、第二次世界大戦後は、国際連合(国連)は民族問題から手を引き、代わって「人民の自決」を新たに国際平和秩序の主要規範の一つに位置づけた。もっとも、国連憲章の採択時点では、国連の目標に掲げられた「人民の同権および自決の原則」は、決して民族の自決を意味しないとの漠然とした共通の了解はあったものの、人民の自決の定義は国連憲章の採択時には間に合わず、それが初めて定義を得るのは植民地独立付与宣言(1960年)を待たねばならなかった。同宣言で定められた人民の自決は、植民地下の「人民」が政治的地位を自由に決定し、経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する、というものである。それは、かつて日本も経験した、西欧化や文明開化といった欧州のガバナンス基準とは無関係に国家の自立と主権を尊重しようとするものであった。この宣言を機に人民の自決は脱植民地化の規範となり、その結果植民地独立は加速化し、イギリスやフランスといった植民地支配は終焉した。

実は、上述の植民地独立付与宣言において「国民的統一及び領土の一部または全部の破壊を目指すいかなる企図」も禁止されていたが、このことが意味するのは、人民の自決に秘められた分離主義の動きへの牽制であった。それ故に独立したアジア・アフリカ諸国は、人民の自決権の行使は一回限り行使できる権利だと主張するようになる。独立した後のさらなる分離独立の可能性を危惧してのことであった。

国連は民族問題から手を引いたとは言え、第二次世界大戦後の半世紀が東西イデオロギー対立の時代と重なっていたことから、それぞれ東西両陣営の内部で欧州共同体(EC)と社会主義共同体の国際統合が進められた一方で、人権の国際化時代を迎え、ジェノサイド条約、人種差別撤廃条約などの採択を機に、人種隔離制度や民族差別制度の廃止に向けた国際運動が起こり、先住民の保護、さらには集団殺害の禁止等に関する国際規範を確立していった。こうした、後に言う「人間の安全保障」に関する規範構築が進んだことから、人種隔離制度や民族差別制度にかかわるガバナンスのありようが国際社会で問われるようになり、その結果、南アフリカのアパルトヘイト体制が国際社会の非難の的となり、アメリカでは公民権運動が展開されそれが人種差別制度の撤廃に、また「白豪主義」のオーストラリアや「白人の」カナダで多文化主義制度の導入につながった。

先述のように、脱植民地化を促進する規範であった人民の自決には、元来、分離主義の動きが秘められていたことから、領土保全規範と競合関係にあった。冷戦期には、分離主義の動きを領土保全規範で阻止しようとした。人民の自決で独立を果たした脱植民地国家は、分離主義者を抱えていたことから、領土保全規範によって国内の分離独立主義の動きを押さえ込む効果が期待されたのである。例えばナイジェリア東部の「ビアフラ共和国」が独立を宣言したその後、200万人もの犠牲をもたらした2年半に及ぶビアフラ内戦が発生するが、アフリカ統一機構(OAU)の諸国は領土保全原則を盾に、一致してナイジェリア政府を支持したのであった。人民の自決権で植民地解放を勝ち取ったアフリカ諸国は、どの国も国内に潜在的に分離主義の動きを内在させており、そのために領土保全を補強し新たに国境の不変原則(ウティ・ポシデティスの原則)を打ち立てねばならなかった。

民地独立付与宣言で規定された人民の自決権の基本形は、政治的地位を自由に決定し、経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する権利であり、その権利の行使主体は植民地下の「人民」であった。その後、権利の行使主体は一般に主権国家の国民にまで広げられた。国連友好関係原則宣言(1970年)では、人民の自決の原則は「すべての人民」が「外部からの介入なしに、その政治的地位を自由に決定し、その経済的、社会的及び文化的発展を追求する権利」を有する、と規定された。「外国からの介入なしに」とは言うまでもなく、外国からの介入なしに、主権国家が自国のガバナンスの有り様を自由に決定できるとの意味である。

欧州安全保障協力会議(CSCE)で合意されたヘルシンキ宣言(1975年)で、参加国の国際関係を律する10原則の一つとして人民の自決権(第8原則)を次のように規定している。「人民の同権と自決の原則により、すべての人民は常に外部の干渉を受けることなく、完全に自由にその欲するときまたは欲するようにその国内的及び対外的な政治的地位を決定し、かつその政治的、経済的、社会的及び文化的な発展をその望むように追求する権利を有する」。東西イデオロギー対立の下で国家のガバナンスの有り様を自由に選択することができるというのが人民、すなわち国民の自決権の要諦であった。

ここで意味する「人民」は言うまでもなく参加国の国民である。CSCEを提案したソ連の開催目的が戦後の領土変更の現状と東欧諸国の社会主義体制の政治的現状の二つの現状に関して西側承認を取付けることにあったことに鑑みれば、ソ連がこのような人民の自決に同意したのは道理であった。社会主義諸国の参加国すべての人民が、人民の自決の原則に基づき社会主義体制を選択したというのがソ連の自決権解釈であった。それに対して人民が自決権を行使すれば、東欧諸国はやがて体制転換を余儀なくされ、その結果、社会主義体制から解放されるというのが西側の自決権解釈であった。東西両陣営は、同床異夢の下で人民の自決の原則に同意したのであった。それと同時に、第二次世界大戦後のソ連による国境変更の現状を西側に認めさせるために、ソ連の強い主張の下で参加国は、すべての参加国の国境を不可侵なものとみなし、将来にわたって国境に対する武力攻撃を慎むという国境不可侵原則(第3原則)に合意したのであった。国境不可侵原則はヘルシンキ宣言においてはじめて独立した国際規範となったのである。

領土保全と国境不可侵の二つの規範によって、戦後の国境は集団的に保障されるはずであった。ところがそれから15年後、東欧民主革命に続いてソ連とユーゴスラビアの崩壊が始まり、再び、この広大な地域で国境線の再線引きが始まる。これらの社会主義国家の崩壊は人民の自決が自由に行使された結果であった。実は、ソ連とユーゴスラビア両国の分裂に先立って、コソボの自決権問題が初めて議論されたCSCE少数民族専門家会議(1991年7月)において、ユーゴスラビア政府代表は、人民の自決の誤った解釈とその行使に警鐘を鳴らしている。CSCEに新規参加を認められたアルバニアが、ユーゴスラビアのコソボ自治州におけるアルバニア系住民の分離独立を認めるように迫ったのに対して、ユーゴスラビア代表は憲法上、連邦構成共和国にのみ離脱権を含む人民の自決権が認められているのであり、「少数民族」には自決権は認められていない、と反論した。しかも、ユーゴスラビア代表は会議終了とともに発表した解釈声明の中で、自決権が保障されているのは「少数民族」ではなく「人民」であるとの「ヘルシンキ宣言の明々白々な原則」がこの会議で確認されなかったことに遺憾の意を表明するとともに、自決権に関する従前の定義が確認されなかった「この危険な前例が明日にでもブーメランとなって他の参加国にも跳ね返り、各国の領土保全、安定、平和を脅かすことになるだろう」と、将来を見据えた意味深長な警告を発したものである。この頃になると、以前から恐れられていた自決権の解釈をめぐって、それが含意すると考えられる分離独立権と、体制選択のヘルシンキ宣言で合意されたはずの権利とがないまぜになり、混乱に陥ったのは明らかである。

このジュネーブ会議が開催されたころには、ソ連は住民投票による独立宣言の動きの真っただ中にあった。もともとソ連もユーゴスラビアの社会主義連邦制国家の統治制度は民族共生、多文化主義を、さらに言えば民族自決主義を国内行政制度に反映したものであった。それが、共産党一党独裁体制の統治力が弱まるにつれ、連邦を構成していたいくつもの共和国が独立を主張するようになったのだ。その独立の手続きとして、ペレストロイカが行き詰まったミハイル・ゴルバチョフ大統領ウが、レーニンの記憶が呼び覚まし憲法に制定されていた分離権の行使の手続きとして住民投票法を制定したのである。住民投票法に基づき独立を志向する連邦構成共和国はもとより、チェチェン・イングーシ自治共和国(ロシア共和国内のチェチェン・イングーシ人)、ナゴルノ・カラバフ自治州(アゼルバイジャン共和国内のアルメニア人)といった連邦構成共和国内の民族自治体までも住民投票を実施し、独立を宣言した。一方、住民投票法が制定されていなかったユーゴスラビアでは、ソ連の民族分離主義の動きが波及したことも手伝い、連邦構成共和国のみならず、コソボ自治州(セルビア共和国内のアルバニア人)、クライナ・セルビア人共和国(クロアチア共和国内のセルビア人)、あるいはスルプスカ共和国(ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国内のセルビア人)など、民族自治体や共和国内の少数民族も、住民投票に加わった。

バルカン戦争再来の悪夢が蘇えった。EC、アメリカ、それにCSCEは、当初、こぞってユーゴスラビアの統一を支持していた。しかし、民族主義の高揚する中で分離独立の流れは押し切れないと判断したECはユーゴスラビアの分離独立と独立承認に関する特別声明を発表し、住民投票の実施を前提条件に連邦構成共和国に限り、独立を承認する方針を示した。その際、武力行使による独立を達成した自治体は承認しないとの不承認原則を確認している。ナゴルノ・カラバフが最後まで、どの国からも承認されなかった背景には、ECの不承認原則の効果があったのである。

ソ連とユーゴスラビアの分裂崩壊から1/4世紀が経過した2014年2月、再び、人民の自決と領土保全との規範衝突が起こる。ウクライナのユーロ・マイダン革命を機にウクライナ社会が混乱する中、クリミア自治共和国とセブァストポリ特別市は3月16日、ロシアへの併合の賛否を問う住民投票を実施し、ロシアとの間で併合条約を結び、ロシアへ併合された。クリミアでの住民投票を受けて、3月18日、クレムリンで演説したプーチンはクリミア併合の正当性について、クリミアは、歴史的に「ロシア領」であり、セブァストポリは歴史的に「ロシアの都市」である。住民投票で有権者の82%以上が投票し、96%以上が独立に賛成したクリミアの独立は、国連憲章が定める「民族の自決権」の行使に他ならない、と述べている。また、同年3月28日、クリミアの住民投票の正当性を審議した国連安全保障理事会の席上、ロシアのチュルキン国連大使は、クリミアの独立は国連憲章第1条に規定され、その後、ヘルシンキ宣言などで確認されている人民の権利の行使であり、人民の自決権とは国内で共生が不可能になった際に人民が分離独立を求めて行使することができる特別の権利であり、中央政府の同意なしに行使できる権利である、とも述べた。いつしか人民の自決は、レーニンが構想したような民族自決に変容したのであった。

その8年後、ロシアのプーチン政権はウクライナ侵攻を開始する。注目すべきは、クリミア半島、ウクライナ東南部4州を併合する際に、その正当性を国連で定めた人民の自治権を援用している点にある。ウクライナ侵攻の前日の22年の2月21日、プーチンは「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の独立を承認する大統領令に署名し、そしてウクライナ侵攻から半年後の9月23~27日、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国、ザポリージャ州、へルソン州のウクライナ4州は、ロシアへの併合の賛否を問う住民投票を実施し、翌9月30日、ロシアは上記4州の併合を宣言した。「人道的介入」によって民族同胞を救済し、救済された人々は住民投票を通して人民の自決権を行使して独立を宣言し、民族同胞はロシアへ併合される。これが人民の自決権に則ったロシアの領土拡張の新方式である。