アメリカ中枢同時テロの背景を探る――「イスラム原理主義」の世界観とそのユーラシアにおける浸透 Background of Terror in the U.S.: The world of 'Ieslamic Fundamentalism' and its infiltration into Eurasia

English Below

2001年10月2日 HPI研究フォーラム

講師 松長昭(イースト・ウェスト研究所研究員/笹川平和財団リサーチアソシエート)

1. テーマ
「アメリカ中枢同時テロの背景を探る――『イスラム原理主義』の世界観とそのユーラシアにおける浸透」

2. 日時
2001年10月2日(火) 15:00~17:00

3. 場所
広島平和研究所 会議室

4. 報告内容
(アフガニスタンの社会的背景)
アメリカの中東地域に対する外交政策はここ最近、失敗を重ねており、クリントン政権からブッシュ政権に移ってからも、中東地域に対する具体的な外交政策があまりみえてこないように思います。ソ連がアフガニスタンに介入していた時、アメリカはCIAや資金供与、武器供与を通じてアフガニスタンに関わっていたわけですが、ソ連の撤退、内戦と続く中、アメリカはアフガニスタンから退いていきました。その後長い間、アメリカはアフガニスタンに関しては人脈を全く構築してこなかったという感じがします。パキスタンに関してもパキスタンの核実験以来、アメリカは長く距離を置いておりました。その代わりパキスタンは最近中国に関係を密にしつつあったわけです。

アフガニスタンという国は今や内戦に化してしまった国というイメージがありますが、元々は東の文化と西の文化が交流する場所、つまり、古来、情報が交換される場所でした。

日本とアフガニスタンの関係は今は全くありませんが、歴史的にみると、近代日本とアフガニスタンはいろいろな面で関係していました。1920年代、30年代に日本が中央アジア、当時ソ連であった新疆の情報が全く取れない時代に、日本はスパイをアフガニスタンに送り込んでアフガニスタンから中央アジアの情報を得ていた、という歴史があります。戦前期の日本ではイスラムに対する政策がほとんどなかったんですが、それでも何か利用しようということで、アフガニスタンを利用していたわけです。その時、実はちょうど今と同じような構図がありました。つまり、昭和8年から昭和10年、サウジアラビアという王国に非常にイギリスの影響力が強い時代に、イスラム復古主義運動に熱心なサウジアラビアの宗教大臣がアフガニスタンに亡命していました。ちょうどラディンがサウジ人でアフガニスタンに身を置いているという様な構図があるわけです。イスラム世界ということで、言葉や言語が違っても、宗教によって同胞意識があるわけですから、サウジアラビアの宗教大臣が昭和8年くらいに亡命してアフガニスタンのカブールに身を寄せていました。彼はその後戦前期の日本まで来ています。

アフガニスタンはそのように、中央アジアの辺境のような地帯でありながら、イスラムの人々にとっては情報を交換する場所として、あるいは、逃げる場所として迎え入れられる場所でした。今回のビンラディンの亡命でもそうですが、世界のほとんどが受け入れてくれないのに、アフガニスタンが受け入れてくれるのです。アフガニスタンには困っているものを見捨てることができないという社会的風土があります。それはイスラム的なものといってしまえばいいのでしょうが、あるいはイスラムではなく、アフガニスタンのパシュテューン、あるいはタジクのもっている、弱いものを助けるという風土ともいえます。頼ってきたものに対してはそれを受け入れる、ビンラディンもそれを頼って逃げていったといえると思います。

アフガニスタンには対ソ戦争当時、アメリカから相当量の武器と資金が供与されています。しかしそれから非常に年月がたっており、砂漠で何も採れない土地で、武器を買うことが難しいのになぜ戦乱が長く続くかというと、これは麻薬、ヘロインのビジネスがあるためといっていいと思います。ケシという植物は水をあまり与えなくても痩せた土地で育つ植物で、アフガニスタンの各地ではケシが非常に多く栽培されており、ケシを密造、精製してヘロインとするヘロインビジネスが資金の調達源になっています。アフガニスタンのような辺境な地帯においてなぜかくも長く戦争が続いていくか、なぜそれだけ武器が調達できるかはヘロインという麻薬と結びついているわけです。

麻薬がどう流れているかというと、西へ行けばアフガニスタン、トルクメニスタン、イラン、トルコをルートにヨーロッパ、そしてアメリカへ行くわけです。つまりヘロインビジネスのグローバリゼーションが起きているのです。中央アジアの地域では、政府役人はこういうものを見てみぬふりをしていますから、密輸が横行しています。そしてそれが資金となっていますから、今後アメリカ軍が、アフガニスタンの問題を短期的に解決する、あるいは長期的に解決するということは非常に困難であり、よほど貧困を無くさない限り、無理と思われます。

アメリカがこのような地域に関与していくということが非常に重荷になって、おそらくアメリカの能力だけではやっていけないとなると、ヨーロッパ例えばドイツあるいは日本に資金面、あるいは人的協力を求めてくるということが必ず出てくると思います。

(中央アジアとイスラム)
イスラム原理主義(イスラム過激派あるいはテロリスト)は、中央アジアその他で、弱い人の間で共感を生んでいます。ウズベキスタンのカリモフ大統領は共産党の元第一書記、トルクメニスタン共和国のニヤゾフ大統領も元ソ連時代の共産党幹部で、二人とも独裁政治を敷いて反対派を粛正するスターリンのような強権政治を中央アジアで行っていますから、ウズベキスタン、トルクメニスタンの反政府運動がイスラム過激派と結びついてしまう要素がおおいにあるわけです。しかも中央アジアの国境地帯は一部を除いて山岳地帯で国境があってないようなものなので、人々の往来が可能です。ただし、タジキスタンについてだけロシア軍が国境を守っております。タジクの国境を守っているのはロシア軍というのはおかしいような感じがありますが、タジクの軍隊が非常に弱く、過激派の運動は非常に強いのでそれを抑えるためにロシアの力を借りているというような感じです。

ウズベク、タジク、トルクメニスタンの地帯は国境線が入り乱れていて、山岳地帯で人々の移動が行われています。過激派があるところからあるところへ越えてしまうと、国境警備隊は国境を越えて行動できないので、国境を越えて逃げられてしまうとそのままです。ですから、いわゆるイスラム過激派、テロリストといわれる人々が活動をしやすくなっています。これは日本と縁がないわけではなくて、わずか数年前、日本のJICAの専門家が誘拐事件で誘拐されたということがありますので、全く関係ないわけではありません。

(アメリカの中央アジアに対する外交政策)
アメリカの中央アジアに対する外交は、日本では非常にダイナミズムがあるように思われていますが、アメリカが各国に開いている大使館も人員が多くなく、実際にアメリカが情報を多くとっているわけではないと思います。ただ、アメリカが数年前から中央アジアに対して人的ネットワーク構築をしつつあるのは事実です。例えば、アメリカの国務省は中央アジアの情報将校(Intelligence Officer)を何人かワシントンに呼んで交流をしているという事実があります。去年その一人に会いましたが、比較的若くて優秀なウズベクの陸軍中佐でした。アメリカは中央アジアとのパイプが少ないといいながら、徐々に何年かをかけてそういう計画をしつつあります。

今アメリカ国務省は、中央アジアでカザフスタンとウズベキスタンを重視しており、そういった国の軍人との交流をしています。今回、ウズベキスタンにアメリカ軍の飛行機が行ったり基地を提供するというようなことはおそらくアメリカの国務省が招待していた数名のウズベクの陸軍将校たちとのコネクションを利用しながらこういうオペレーションをしつつあるのではないかと思われます。

日本では中央アジア地域との人的交流を進めているかというと、JICAを含め、経済協力、援助という形の協力は行っていますが、文化的、政治的な交流はまだ端緒についたばかりではないかと思います。

中央アジアにおけるイスラムの社会的・文化的背景と反米感情
今回の過激派の活動によって中央アジアでどういった連鎖反応が起きるかと考えてみますと、新疆ウィグル自治区とアフガニスタンはわずかながら国境を接しておりますが、国境については中国側は神経をとがらせていまして、アフガニスタンと中国新疆との国境に関してはほとんど国境封鎖に近い状態です。私が5月に新疆のウルムチに行って関係者に聞いたところ、アフガニスタンと新疆ウィグル自治区の貿易あるいは経済的交流は全くないといっていました。中国も、過激派の侵入に非常に気を使っています。事実かどうかわからないんですが、ウイグル人の中にもアフガニスタン、タリバンのところにいって戦闘訓練を受けている、そういうものがウイグルに持ち込まれて民族運動に大きく発展していくことを非常に中国は警戒しています。

ウイグル人はウィグル語を話しています。ウイグル語とアフガニスタンのパシュテュン、ダリー語はトルコ系の言葉とペルシャ系の言葉で言語としては全く違う系統なんですが、ウイグル語の中にも多くのペルシャ語系、ダリー語やパシュテュンに近い単語がたくさん入っています。これらは言葉としては最初は外国語のように違うんですが、似たような言葉が入っているため、一緒に生活していると言葉を身につけてしまいます。ウズベクとウイグル語はトルコ語系で系統が近いんですが、タジクはペルシャ語系で、パシュテュン、ダリはペルシャ語系です。中央アジアの人々は言葉を耳から習得して、いくつか違った系統の言葉を理解しあい、国境を越えて活動ができるのです。

アフガニスタンの活動家でパシュテュン語を話す人がキルギスに行って活動する時に、なぜローカルの人たちとコミュニケーションができるかというと、ローカルの人たちは、書き言葉としてのロシア語や中国語はできないんですが、話し言葉としていくつかの言葉が使えるわけです。ですから国境線があってもないかのように、人々が交流するということが起きています。ウイグルの人たちがアフガニスタンに行って訓練を受けて言葉を覚えてしまう、ということもあるわけです。

またアフガニスタンとイランも国境が長く接していて、言葉の上でも非常に近いわけです。パシュテュンやダリを話すタリバンがイランにやってくることを警戒する背景には、言葉がすぐに通じてしまうということがあります。ダリ語と現代ペルシャ語はほとんど方言差くらいの違いしかなくて分かり合えてしまうわけです。タリバンの戦士が国境を越えてイランに入ってしまうと、イラン人と普通に生活ができてしまいます。イランがアフガニスタンとの国境を厳重に警備するというのは、いろいろな理由があると思いますが、アフガニスタンのタリバンが難民として逃れてきてイランに流れてきてしまうと、イラン人と同じですから紛れてしまうのです。

パキスタンの場合は、イランよりもさらに国境が甘いため、タリバンが難民として入ってしまったら、おそらくわからないという状況になると思います。生活習慣があの地域はほとんど似通っていて、見た目ではあまり区別がつきません。タリバンは黒いターバンを巻いていますがああいうものをはずして、パキスタンの国境を越えて町の中に入ってしまうと、普通のパキスタンの一般の市民と一緒で区別がつかないわけです。ですから国境線はあの地域であってないようなものです。

新疆ウィグル自治区のウイグル人がタリバンと結びついているとすれば、アメリカが攻撃を行うということがもしあったとして、反米感情を植え付けてしまっていろんなところに広がっていくということになります。新疆ウィグル自治区のウィグル人の民族運動は今のところ反中国と結びついていて、反米とは結びついていませんが、タリバンとアメリカの対立が東の方に向かって、反中国の新疆ウイグル自治区のウイグル人の間で、この問題が反アメリカとなってしまうわけです。そうすると中国とアメリカが逆に結びついてしまって、新疆ウィグルの民族武装闘争が起きた場合に中国が力で制圧するということを行ったとしてもアメリカは見てみぬふりをする、ということがこういう辺境地帯ではありうるわけです。アメリカのいう人権というものが全く無視されることになります。アメリカの人権政策は往々にしてダブルスタンダードといわれていますが、そのようなことも起きうると思われます。

イスラム地域の弱者の中には強国アメリカに対する反感が非常に大きく、エジプト、トルコでもそうですが、イスラム地域に反米という考え方は庶民の中で大きくありました。中央アジアのウズベギスタン、トルクメニスタン、カザフスタンには、「反米」というのはなかったわけです。1991年ソ連が崩壊するまで長い間、中央アジアには反ソ連という感情はありましたが、反米という感情は存在していません。しかし、今回のタリバンを含めた問題が「反米」として広がっていき、中央アジアに存在していない反米感情がウズベキスタンの中で生まれてくる可能性があります。

中央アジアの中でイスラム教に一番熱心なのは、ウズベキスタン共和国です。ウズベキスタン共和国の熱心なイスラム教信者がイスラム原理主義と結びつかないように大統領カリモフは政治的圧力を加えているわけです。そういった反政府派とタリバンを含めたイスラム過激派が結びつき、そこに反イスラムという行為をするアメリカに対する反米意識が結びついていくと、ウズベク人の中に今までの反ソ連という感情が消えて反米感情が生まれてくる可能性があるわけです。これは、中央アジアの中で、人々の意識に大きなターニングポイントになるのではないかと思います。

(アメリカ・ヨーロッパにおける反イスラム感情)
ヨーロッパでは、今回の事件でイスラムは危険なものだというイメージが起きつつあると思います。ドイツには今200万人のトルコ人がいますが、彼らはイスラム教徒です。トルコ人は外国人労働者として、1970年代に合法的にトルコ共和国からドイツに移住し労働者として働いているわけです。ドイツでは、「インテグレーション」が非常に大きな問題になっていまして、なかなかドイツ人とトルコ人がうまくやっていけません。トルコ人は田舎から近代社会のドイツに行ってしまったわけです。今はあまりみられませんが、ドイツでもイスラムのバイラムという宗教行事でトルコ人が路上で羊を首からナイフで切って祝うのを、ドイツ人が見るとカルチャーショックを受けるわけです。ドイツ人はそれを見ると、だからイスラムは野蛮なんだとレッテルを貼ってしまいます。トルコ人は自分たちの習慣をそのまま場所を変えてやっているだけです。そうなると、キリスト教とイスラム教の対立というふうに考えられてしまうわけですが、お互いがお互いを、「宗教が違うから」ということで理解しようとする努力が欠けてしまっているわけです。これはいろんな移民を受け入れているヨーロッパでさえもそういうことが起きているわけです。フランス、ドイツにしても多くのイスラム教徒が住んでいますが、うまく共存できません。ベルリンの地下鉄のいたずら書きを見ると、ドイツ語で「トルコの豚は出て行け」と書いてあります。これは豚を食べないイスラム教徒を非常に馬鹿にしているわけです。特に旧東ドイツ出身の人たちがそういうことをしてしまっているんですが、イスラム教徒とヨーロッパの人たちが長い間一緒に住んでいながら共生できていません。

今回のアメリカ同時中枢多発テロもアメリカに疑心暗鬼を起こし、差別を生んでいます。モスクに石を投げたり、イスラム教徒のような気がしただけで殺されてしまったということがあります。アメリカは民族のるつぼといわれて民族が混ざって住んでいるように思われていますが、そうではなくて、アメリカは民族がモザイクになって棲み分けをして、他の民族に対して干渉しないということで成り立っている社会なわけです。お互いに違うバックグラウンドをもっている人に対して干渉しないという暗黙のルールがあるのですが、今回の事件はこの暗黙のルールを壊す、という雰囲気があるわけです。イスラムというものを危険視する動きがあり、アメリカ人のなかには単純な人たちがいて、イスラム人イコール危険ということで、暴力的な事件が起きてしまう。異なるバックグラウンドを理解しようとすることが今回の事件で欠けてしまうのではないかという危惧を感じています。

(日本とイスラム)
日本ではイスラムは縁のない宗教と感じられていますが、そう言っていられない時代が来つつあります。東京の代々木上原に最近モスクができて、在日イスラム教徒が集まってコーランが流れていますが、この場所には元々昭和13年につくられたモスクがありました。今日本とイスラムは政治的結びつきがない、逆に政治的結びつきを避けるという流れなんですが、逆に戦前は、イスラム教徒を日本の大陸政策に積極的に利用しようということがありました。当時、日本の軍部、外務省は、積極的にイスラム教徒を日本の大陸政策、回教政策に利用しようとする動きがあったのです。実際に外務省の外交文書資料館に一連の歴史資料が残っています。第二次世界大戦終了後は、日本はイスラムとの関わりをなくすという流れがあり、またイスラム教の研究者は戦前政治と関わりすぎたということで、研究から足を洗ってしまうということがありました。そのため戦前と戦後のイスラム研究には断絶があります。

戦後、日本では新しくイスラム研究、中東研究があらわれてきて、現地での体験を持つ研究者が多く出てきて層も厚くなっていますが、戦前と戦後の日本のイスラム研究の違いとして、日本政府の外交政策には関与したがらず政治とは距離をおくという姿勢が見られます。そのため、湾岸戦争のときもそうでしたが、これから起きる事柄に対してそれを未然に防ぐために研究者がもっている知恵やノウハウをもって積極的に協力し、ある程度関与しようという姿勢は日本の研究者には感じられません。また、今回の事件については、イスラムということも大事ですが、アフガニスタンという一地域のことを細かく分析し、よく知っている人が発言すべきだと思います。

HPI Research Forum on October 2, 2001 

Background of Terror in the U.S.: The world of "Islamic Fundamentalism" and its infiltration into Eurasia

By Akira Matsunaga, Research Fellow at the EastWest Institute / Research Associate at the Sasakawa Peace Foundation

1. Theme
"Background of Terror in the U.S.: The world of 'Ieslamic Fundamentalism' and its infiltration into Eurasia"

2. Date and Time
October 2, 2001 (Tue.), 15:00-17:00

3. Venue
HPI Conference Room

4. Summary of the report
To promote a better understanding of the September 11 terrorist attacks in the United States, Matsunaga highlighted the following points: The geographical and historical characteristics of Afghanistan and the growth of Islamic fundamentalism, anti-Western sentiment in the Islamic world and the failure of U.S. foreign policy, and the direction of Japan's policy on Afghanistan.

For centuries, Afghanistan has been a meeting point between East and West, a place where people from diverse backgrounds have gathered to socialize and exchange information. However, as a junction, both literally for transport and figuratively for cultures, Afghanistan has had its share of problems. Since the time of the Silk Road, it has been renowned for its tradition of looking after guests and people in trouble. In the 1930s, a minister of pilgrimage in Saudi Arabia who decided to devote himself to Islamic fundamentalism took refuge in Afghanistan. It seems that Afghanistan harbored Osama bin Laden not only because of his Islamic fundamentalism but also because of this tradition of hospitality. The country has its share of structural problems, namely, poverty and regional opposition to strong central government behind the growth of Islamic fundamentalism in Afghanistan and throughout central Asia.

It can be said that U.S. policy in Afghanistan has failed. After Soviet troops invaded Afghanistan, the United States provided arms and funds to anti-Soviet forces. But when the Soviets withdrew in 1980, Washington, too, ended its involvement in the country. Clearly, the United States did not have a long-term strategy for Afghanistan. If Washington should attempt to force its values on Afghanistan or become preoccupied with short-term problems such as drug trafficking and extremism, while ignoring structural problems such as poverty, anti-American sentiment inside Afghanistan would escalate. If that should happen, it would be far more difficult for the United States to establish the kind of international order it favors.

Looking back on relations between Japan and the Islamic world, it is possible to identify a tendency for Japan to take advantage of those relations even before World War II. After the war, however, this approach disappeared. Japanese experts on Islam, who were seen as having been meddlesome, were deliberately no longer involved in Japan's policy toward the Middle East. After the Gulf War, some began to reassert their influence, but they remain small in number. The friendly feelings many people in the Islamic world have toward Japan should be seen as an asset. Japan must adopt a broad, strategic approach toward Afghanistan, bearing in mind the high level of goodwill that exists between the two nations.
(By Nobumasa Akiyama, assistant professor at HPI)