残留日本兵とメディア――小野田寛郎元少尉の帰還をめぐって Japanese Army Stragglers and the Media: The Return of Former Lieutenant Hiroo Onoda from the Philippines

永井 均(教授・副所長)

*この記事は、紀要『広島平和研究』第7号に掲載されたものです。
ここでは、その一部をご紹介しております。

はじめに  

1974年3月12日の夕方4時過ぎ、小野田寛郎元陸軍少尉がフィリピンから帰国した。「先の大戦」が終わっても終戦を信じず、フィリピンで投降を拒み続けた元日本軍人、小野田元少尉がルバング島の密林から投降し、30年ぶりに祖国の土を踏んだのである。

彼が降り立った羽田空港はこの日の午後、世間の話題の中心だった。午後1時過ぎ、東京・那覇間の日本航空(JAL)のジャンボ機が18歳の少年にハイジャックされ(犯人は夜半に那覇空港で逮捕)、4時6分にはノーベル物理学賞の受賞者、江崎玲於奈博士が学会出席のために研究拠点の米国から一時帰国、そして4時30分に小野田元少尉を乗せた日航臨時便が到着したのである。このうち、小野田元少尉への人々の関心はとりわけ高く、羽田空港には彼の帰国を一目見ようと約7000人(空港調べ)がつめかけた。『朝日新聞』は、その時の空港内の様子を次のように報じている。

「小野田さんらを乗せた日航臨時便の DC8(金垣祐介機長)は、晴れあがった同空港に予定通り到着、すぐそばに貴賓室のある二十番スポットに入った。同空港には親族、戦友、学友らのほか、一般の人も多数出迎え、小野田さんが元気な姿を見せるとどよめきがわき起こった。」

小野田元少尉がルバング島のジャングルから生還したニュースは、文字通り日本社会を席巻し、テレビの主要各局は午後 4 時頃から一斉に特別番組を放送した。その反響の大きさは、例えばNHKの特番が45.4%という驚異的な高視聴率を記録し、『週刊文春』が「小野田ショック」と特集記事に見出しを付けたことからも窺える。日本ばかりか、諸外国もフィリピンの残留日本兵のニュースを大きく報じた。

それでは、小野田元少尉の帰還は当時、日本社会で具体的にどのように受け止められたのか。本稿では、帰国前後の新聞報道を手がかりに、元少尉の帰還の語られ方に着目し、その内実を探っていく。初めに小野田元少尉が1944年12月にフィリピンに渡り、ルバング島に派遣され、終戦後30年近くその小島の密林に身を潜めた後、74年3月に帰国するまでのプロセスをたどる。次いで、元少尉をめぐる国内報道について、特に帰国前後に焦点を当てて分析する。具体的には、まず主要紙である『朝日新聞』と『読売新聞』、『毎日新聞』の三紙の報道状況を考察し、続いて『サンケイ新聞』が元少尉の帰国直後に実施した1000人に対するア ンケート調査の内容を吟味する。さらに地方紙の報道例として『中国新聞』を取り上げ、投書を中心に読み解く。以上のテキスト分析を踏まえ、小野田元少尉の 帰還をめぐる新聞報道の論調とその意味を考えることとしたい。

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