第一次世界大戦後のドイツの平和運動

竹本 真希子 (准教授)

*この記事は『広島平和研究所ブックレット』2号に掲載されたものです。
ここではその一部を紹介しています。

はじめに

第一次世界大戦は国際政治のあり方を大きく変えたと言われるが、その影響を強く受けたのがドイツであることは言うまでもないだろう。敗戦国であるドイツは帝国から共和国へと体制を変えたが、大戦の講和のためのヴェルサイユ条約の戦争責任条項や賠償金問題は重荷となってその後の政治に影を残し、ナチによる独裁と第二次世界大戦への道に進むこととなる。しかしその一方で、第一次世界大戦中に戦争そのもののあり方が変わったことでドイツの戦争と平和に関する議論も大きく変化し、大戦後のヴァイマル共和国期には活発な平和に関する議論と平和運動が展開されてもいる。本稿ではこうした第一次世界大戦後の平和運動と平和論を中心に振り返り、ドイツの平和運動の歴史を追うこととしたい。

1 平和運動のはじまり―一九世紀末の平和運動

人間は古代から戦争と平和について関心を持ち、議論してきた。古代ギリシアの歴史家であるヘロドトスが主題としたのはペルシャ戦争であり、続くトゥキュディデスはペロポネソス戦争の歴史を書いた。喜劇作家のアリストファネスによる『女の平和』は、女性による反戦を描いたものであった。またエラスムスやグロティウスなど、中世から近代にかけても多くの思想家が戦争と平和の問題を取り上げている。そしてイマニュエル・カント(Immanuel Kant)の『永遠平和のために』は、現在に至るまで世界の平和思想に大きな影響を及ぼしている。しかしながら今日の我々がいうところの平和運動が本格的に始まったのはかなり時代が下ってからのことで、一九世紀になってからとされている。アメリカで平和協会がつくられたのを皮切りに、キリスト教の一派のクエーカーなどが中心となって欧米の各地に平和協会が設立されるようになった。

ドイツにおける平和運動のはじまりは、一八九二年のことである。アメリカや西ヨーロッパ諸国に比べ、やや遅れてのことであった。そもそもドイツでは他のヨーロッパ諸国に比べて国民国家建設が遅れていた。北部のプロイセンを中心に小ドイツ主義に基づいた国家建設が始められ、一八七〇年の普仏戦争に勝利した後、ドイツ帝国が成立し国民国家統一がなしとげられたのは、一八七一年のことである。ここから急激な近代化と富国強兵政策によりドイツは大国への道を歩み、帝国主義の時代における世界分割に参入していく。一九世紀末から二〇世紀初めにかけてのヨーロッパはドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国・イタリアの三国同盟とイギリス・フランス・ロシアによる三国協商とに別れていた。ドイツはベルリン、ビザンティウム(イスタンブル)、バクダードに鉄道を敷設しようとする3B政策によって、カイロ、ケープタウン、カルカッタを繋ぐイギリスの3C政策と対立し、さらに二度のモロッコ事件によってフランスとの関係も悪化させた。各国の軍拡競争と植民地政策はさらなる対立の火種を生み、一部の人々の間に欧州戦争勃発への危機感を抱かせることになった。そしてこれが平和のための「組織化」をもたらしたのである。一八九九年と一九〇七年に開催されたハーグ万国平和会議などの国際会議や、国際連盟運動などが起こったのはこの時期であり、まさにこれと時を同じくして各地に全国規模の平和団体が生まれ、同時に国際的な平和運動も始まったのである。

ドイツにおける平和運動は、オーストリアの影響のもとで始まった。一九世紀末のドイツ語圏の平和運動を支えた一人であるベルタ・フォン・ズットナー(Bertha von Suttner)がそのために大きな役割を果たした。貴族の家に生まれながら貧しく、家庭教師や家政婦の仕事をしていた彼女は、一八八九年に出版した反戦小説『武器を捨てよ!』の成功によって反戦運動家として名を知られることとなり、オーストリアのみならずドイツやアメリカにも渡って平和を呼びかけた。アルフレッド・ノーベルの友人でもあり、彼女の進言によってノーベル平和賞が作られたとも言われている。ズットナーの人道主義的な平和主義と国際的な活動は、オーストリアの平和運動の原動力となり、一八九一年にオーストリア平和協会が設立された。そしてこれがドイツの活動に影響を与え、彼女の弟子であるアルフレート・ヘルマン・フリート(Alfred Hermann Fried)が中心となり、翌一八九二年、ベルリンにドイツ平和協会が設立されたのである。フリートはズットナーのやや感情的ともいえる反戦平和を「科学的平和主義」に発展させるべく、平和運動の理論的基盤として国際法を取り入れた。なおズットナーとフリートは平和運動への功績をたたえられ、それぞれ一九〇五年と一九一一年にノーベル平和賞を受賞している。

設立から第一次世界大戦前までのドイツ平和協会は、国際協調や法による平和を唱え、仲裁裁判所や超国家組織の設立といった目標を掲げるものであった。政治家に軍縮を働きかけることで戦争を防ごうとする、自由主義者による「名士のクラブ」ともいうべきものだったと言われている。もともと「平和主義」(Pazifismus)という言葉は、このような運動を指す表現としてこの時期に作られた造語である。この時点では平和主義とは、国家間の紛争を平和的・非暴力的に解決しようという、個人的あるいは集団的な努力のことを指しており、これによって法に基づいた諸国民および諸国家共同体が建設されるべきだと考えられていた。そして平和主義者とは、こうした運動の担い手として自覚を持って活動する人々を意味する言葉であった。

こうした国際協調の運動とは別に、平和運動の発展に大きな影響を与えたのが、第二インターナショナルの反帝国主義反戦運動である。一九〇七年のシュトゥットガルト大会決議や一九一二年のバーゼル臨時大会での反戦活動はよく知られ、彼らが唱えた「戦争に対する戦争を」というスローガンは、その後今日に至るまで平和運動のスローガンのひとつとして知られるものとなっている。第一次世界大戦以前のドイツでは、自由主義者を中心としたドイツ平和協会と社会主義者の反戦運動はそれぞれ別の流れとして存在し、与することなく行われていた。

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