負の遺産の保存と継承 Preservation and Inheritance of the Unfavorable Legacy of Past Deeds

第3部 被爆体験の記憶の継承と普遍化

藤本 黎時(元・広島市立大学学長)

*この記事は、紀要『広島平和研究』第7号に掲載されたものです。
ここでは、その一部をご紹介しております。

(3) 広島市立大学における被爆体験の記憶の継承の試み

広島市立大学は開学時に、3 学部の学生たちが核廃絶や平和の問題を学ぶための全学共通科目として「平和と人権 A(ヒロシマと国際平和)」を設けた。また、 本学には、広島以外の各地から入学してくる学生も多い。そこで、歴史的視点からかつての軍都広島について学ぶと同時に、被爆都市としての広島について、文化、歴史、政治、経済、スポーツ等の視点から立体的に学ぶオムニバス形式の授業科目「ひろしま論」も設けた。また、大学院では、全研究科共通科目として「国際関係と平和」も設けてある。

被爆60周年の年に、広島市立大学芸術学部美術学科油絵専攻の学生たちは、被 爆者の証言を聞いて、それを油絵作品に制作するプロジェクトを始めた。学生たちは、被爆者と一緒の時間を過ごし、かつての被爆の現場を訪れ、証言を聞きながら想像力に頼って立派な作品を多数完成した。

学生たちは、忍耐強く被爆者の証言を聞き、それをキャンバス上に表現し描き出す努力を続けながら、無意識のうちに被爆者の心の深層に迫っていった。学生 たちは、自覚していようといまいと、被爆を追体験させられ、実体のない観念に すぎなかった被爆体験の記憶が、それぞれの心の中でリアリティを獲得して精神 の一部となったことだろう。毎日のように、学生は被爆者と制作のための時間を 過ごし、二人の間には親と子や祖父母と孫のような親しい関係も生まれた。完成 した作品は、被爆者の証言のときに有効に活用されている。

また、同じ油絵専攻の教員と学生たちによって実施された被爆者、被爆二世、 三世の肖像を描き残すというプロジェクトも、被爆体験の記憶の普遍化と継承の ための貴重な試みであった。肖像画の制作は、ヒバクシャの証言する地獄絵のような悲惨な状況をそのまま描き出すことではない。作家とモデルとの真剣な対決 から始まり、筆舌に尽くしがたい被爆体験の苦しみを理解しようと努めながら、 被爆者の顔を画布に描き出すとき、その人の心中に秘められた潜在的な意識も画 面に顕在化することになるだろう。完成された作品の展覧会「光の肖像」展は、 副題を「被爆者たち、それを受け継ぐ者たちの眼差し」として公開された。

昨年秋、広島を訪問されたローマ教皇フランシスコは、原爆投下を犯罪と断じ、 同じ過ちを繰り返さないために、被爆の記憶を次世代に伝えることの必要性を強調し、「歴史を記憶し、共に歩み、守ること。この 3つは倫理的命令です」といわれた。油絵専攻の教員と学生たちは、被爆の実相を作品として記録し、被爆体験の記憶を後世に語り伝えることは、広島で芸術活動をしている作家に課せられた任務であるとの使命感からこのようなプロジェクトに取り組んだ。原爆投下後70 余年が過ぎて、被爆体験の記憶が風化しかかっている今日、このようなプロジェクトは、被爆体験の記憶の普遍化と継承という貴重な企てである。

現在は、少数ながら被爆者から、直接、被爆体験の証言を聞く機会がある。やがて、21世紀の中葉には、すべての被爆体験者がこの世を去る時代が訪れる。そのときには被爆体験の記憶が、私たちの精神の一部となって継承されていること を心から願い、期待したい。

(4) 広島平和研究所への期待――「豊かな想像力」と「共感する心」

広島平和研究所開設(1998年 4 月)の数か月前、『広島平和研究所(仮称)基本 構想』の最終まとめの相談のために、当時の広島市立大学事務局総務課の荒本徹 哉・将来構想担当課長と蓼原清道主幹とともに、初代所長に内定していた明石康 氏(元国連人道問題担当事務次長)を東京渋谷の国連大学事務局に訪ねたときの ことを思い出す。

明石氏は、『基本構想』の中にある「核廃絶」という言葉を捉えて、現代の国際 社会では「核軍縮」の方が一般に通用し、理解が得られる言葉だと強く主張され、「核軍縮」への修正を求められた。カンボジア暫定統治機構の最高責任者(1992年-93年)や旧ユーゴ民族紛争の国連活動の指揮(1994年-95年)をとられた経験のある明石氏としては、当然の主張だったと思われる。しかし、被爆都市に設置される研究所としては、どうしても譲れない一線であった。さっそく、平岡敬市長の「核廃絶」への強い思いを伝えて原案通りにしていただいた。

現実論と理想論がぶつかった場面であった。「核廃絶」は到底実現不可能な理想 論に過ぎないと一笑に付されても、被爆都市ヒロシマに設立される平和研究所が 現実論に与して、「核廃絶」という目標を放棄しては、研究所設立の目的は無意味 となる。原爆ドームをはじめ被爆建物を保存することも、負の遺産を継承していくことも無益な徒労となるだろう。被爆都市の市民としても、「理想論」を堅持すべきである。

1998年 2 月に策定された『広島平和研究所(仮称)基本構想』(2-4頁)の中で、 研究所設置の必要性として、次の 3 点を挙げている。
(1)広島の歴史的な体験を世界の人々に伝え、理解と共感を得るための知的な枠組みを構築していく。(2)「消極的平和」にとどまらず「積極的平和」の達成を目指して、地球規模の諸問題の解決に貢献していく。(3)平和研究の発展に寄与しつつ、「広島から発信する平和学」を構築して新しい パラダイムを模索していく。

研究所設置の必要性として、上記の 3 点に絞ったことは説得力があり、明快で ある。今ここでは、(2)の「『積極的平和』の達成」について付言することで本稿を締めくくりたい。

基本構想の中で述べられている「『積極的平和』の達成」とは、要約すれば、人 権問題、難民問題、環境問題等、人類の生存を脅かしつつある地球規模の複雑、多岐に亘る諸問題や、北の国々と南の国々との富の偏在による教育や医療など多 種多様な格差などの問題解決のために、「平和研究の先導的役割を果たしていきたい」という決意である。

当初、『基本構想』の審議の段階では、本研究所の役目として、国際的な紛争の仲裁の役目まで検討されていたと聞いている。大学の研究機関が、紛糾した国際 政治の渦中で先導的役割を果たすことは困難であり、期待できないが、初代所長として明石康氏を招聘したことは、氏の国際社会での実績と手腕を期待しての意図があったのかも知れない。

1998年 5 月、インドとパキスタンが核実験を行ったことは、国際社会にとって 衝撃的な出来事であった。そこで、大量破壊兵器の拡散防止のために、唯一の被 爆国としての責務であるとの考えで、当時の日本政府支援による「東京フォーラ ム」の開催が提唱された。

1998年 8 月から1999年 7 月まで、広島平和研究所と日本国際問題研究所との共催で、明石康・初代所長を議長として、「核不拡散・核軍縮に関する東京フォーラム」が開催された。本学の平和研究所の研究員たちは、17か国 1 国際機関から招 いた軍縮・不拡散問題の著名な専門家23名に加わって、真剣な審議をサポートし、審議の過程を時々刻々メディアを通して内外へ報告した。

フォーラムの成果は、日英語あわせて130頁余の報告書『核の危機に直面して』 (Facing Nuclear Dangers)(財団法人・日本国際問題研究所、1999年12月27日)にまとめられて国際社会へ発信され、当時の国連のアナン事務総長からも歓迎、評価された。

ところで、動物にも人間にも、種族保存のための本能として闘争心があるが、 「想像力」(imagination)と「共感する心」(sympathy)は、人間だけに与えられた貴重な能力である。政治的手腕や軍事力によって「積極的平和」を達成することは不可能であろう。そのためには、先ず、人種や宗教を超えて他国の困窮した人々が置かれた立場を理解する豊かな「想像力」と「共感する心」を持たなければならない。「アメリカ、ファースト」を主張する人には、「想像力」と「共感する心」 が全く欠如しているといわざるを得ない。他国の何の罪もない民衆を空爆の犠牲 にする命令を発するのは、「想像力」の欠如であり、許されない行為である。「被爆体験の記憶が精神の一部となる」まで語り継ぐことによって、地球規模の「負の遺産」を理解する「豊かな想像力」と、貧困や飢餓に悩み、苦しんでいる人々に対する「共感する心」が養われることだろう。

アイルランドの人々の大飢饉の記憶が精神の一部となるまで語り継がれてきたように、被爆体験の記憶が精神の一部となるまで世代を超えて語り継がれ、国際 平和文化都市「ひろしま」の人々の心の中に、「豊かな想像力」と「共感する心」とともに「思いやり」や「寛容な心」が育ち、世界平和実現のための核廃絶運動を継続する意思と希望が継承されることを心から願っている。そのための広島平和研究所の役目と今後の活動を期待したい。

*紀要『広島平和研究』第7号で全文をご覧いただけます。
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