四條 知恵(准教授)
今年も8月6日がめぐってくる。7月の終わりから8月にかけて、広島市内では、さまざまな慰霊、追悼行事が催される。本稿では、そのなかの広島県立第一中学校原爆死没者慰霊祭を取り上げたい。
同慰霊祭は、毎年7月の終わりに広島県立第一中学校(以下、一中)の後継校にあたる広島県立広島国泰寺高等学校(以下、広島国泰寺高)の「追憶之碑」の前で、一中原爆死没者遺族会、広島国泰寺高、鯉城同窓会からなる一中原爆死没者慰霊祭実行委員会の主催で開催される。
連日の猛暑の中、幾張も白いテントが張られた追憶之碑の前で、今年も慰霊祭が執り行われた。追憶之碑には、一中に在籍在学中の原爆による死没者氏名が彫り込まれている。爆心地近くに位置する一中では、建物疎開作業に従事あるいは学校内に待機していた教職員、学徒など369名が死亡するという、甚大な被害を出した。1954(昭和29)年に出版された我が子を亡くした遺族の慟哭を綴った『星は見ている――全滅した広島一中一年生父母の手記集』(鱒書房)が、世に知られている。
慰霊祭のプログラムは、広島国泰寺高校長、鯉城同窓会長、校友会会長(生徒)の追悼の辞の後、献花と続き、吹奏楽部の演奏による「鯉城の夕」の献歌を挟んで、一中原爆死没者遺族会会長により、『星は見ている』から、一篇の手記が読み上げられる。原爆死没学徒の遺族、当時の同級生、同窓会関係者、広島国泰寺高の教職員など90人が参列したほか、放送を通じて教室から参加した在校生も含めると参加者は1,100人に上る、大規模な慰霊祭である。
被爆から79年を経た今、出席する当時の同級生は数を減らし、遺族のなかに兄弟姉妹の姿はあっても、父母の姿はない。だが、当時の同級生や遺族以外にも、受付をし、献花を手渡すなどの運営に携わる同窓会関係者やアナウンスをする放送部、生演奏を添える吹奏楽部、慰霊祭を記録する生徒、顧問など、会場のそこここに慰霊祭を作り上げる一員として現役世代や生徒の姿が見られる学校の慰霊祭は、若い世代の活気が感じられる場でもある。
毎年学校で行われる慰霊祭は、ルーティン化した学校行事の一つでもある。年ごとに大きくプログラムが変わる訳ではないだろう。しかしながら、同窓会長は、追悼の辞を読み上げる際にこみ上げる涙を抑え、遺族会会長が亡くなった学徒の父の手記「骨片」を読み上げる際には、猛暑の会場に幾人もの鼻をすする音が響いた。もう、あのような戦争をしてはならない、と絞り出すように呼びかける関係者の追悼の辞は、心からの思いが感じられるものだった。高齢となった同級生や遺族が、照りつける太陽の下で慰霊祭に参加するのは、容易なことではない。慰霊祭の最後に遺族会会長は、「私は来年も必ずここに来ます。またこの碑の前で会いましょう」と参列者に呼びかけていた。被爆から80年近くを経た今も、碑の前に集う人々にとって、慰霊祭は一中の被害を悼む大切な場なのである。それほど、理不尽な死というものは癒しがたいものなのだろう。
追憶の碑の前で行われる慰霊祭は、一中の原爆被害を語り継ぐことで、かつての一中と現在の広島国泰寺高を取り巻く人々を世代を超えて結びつけ、追憶之碑に息吹を吹き込む場となっている。なかなか情報を得ることが難しい慰霊祭だが、一中に限らず、8月6日前後には、広島の街のそこここで、数多くの慰霊祭が行われている。一般参列もできる場合があるので、訪れてみてはいかがだろうか。広島の街に今も息づく被爆の傷と、関係する人々の思いを感じられるはずである。
