北海道被爆者協会の歩みと「北海道ノーモア・ヒバクシャ会館」

加藤 美保子(講師)

北海道ノーモア・ヒバクシャ会館設立の経緯

2023年8月初旬、札幌市白石区にある「北海道ノーモア・ヒバクシャ会館」を訪問し、北海道被爆者協会の歩みと現在の活動についてお話を伺う機会をいただいた。同会館は、JR千歳線の「平和駅」を降りて長い歩道橋を「平和通り口」の方面へ渡り、出口を出た所にある。会館の建物は、屋根の上に原爆ドームを模したオブジェを冠しており、近くまで行って見上げるとすぐに建物を見つけることができる。

北海道ノーモア・ヒバクシャ会館

北海道被爆者協会の前身は、1960年に結成された北海道原爆被害者団体協議会(北海道被団協)である。日本ではビキニ事件をきっかけに原水爆禁止運動が活発になるが、北海道でも各地に被爆者の組織がつくられ、それらが一つになったのが北海道被団協であった。1965年からは毎年8月6日に「原爆死没者慰霊祭」が行われるようになり、1968年の第4回目の折に、被爆者らの「いこいの家」の建設を訴える声が上がったことが、会館建設の運動へつながっていったという。

1982年に組織された「北海道ノーモア・ヒバクシャ会館建設委員会」は、会館を建設するためのレンガを1つ500円で購入してもらうという「レンガ募金」を開始した。1991年8月に着工し、同年12月に落成した北海道ノーモア・ヒバクシャ会館は、被爆者と市民による運動と寄付でつくられたと言える(経緯の詳細については、文末のQRコードから協会のウェブサイトを参照)。現在の会館は、1階が事務所、2階が広島、長崎の被爆資料や写真を展示した原爆資料展示館となっている。3階は研修室と図書資料室であり、研修室では見学者に被爆者が語ったり、映像を視聴したり、サークルの研究会なども開催される。筆者が訪ねたときには、この会館ができるまでの被爆者の苦難の歩みを、長崎で被爆した少女の人生と重ねて描いた絵本『北の里から平和の祈り-ノーモア・ヒバクシャ会館物語』(こやま峰子文・藤本四郎絵、北海道新聞社、2020年)の原画展が3階で開催されていた。優しい色合いの原画と、少女が大事にしてきたマリア像(2階に展示)のイメージが脳裏にやきついている。図書資料室には原爆関係の図書を中心に約2000冊の本がそろっており、『はだしのゲン』全巻や第五福竜丸に関する資料も閲覧できる。

北海道に被爆者が多いのはなぜか

北海道の被爆者の存在は、一般的にも研究者の間でもあまり知られていない。筆者自身、広島平和研究所に赴任する前は20年近く札幌を拠点にしていたが、恥ずかしながら北海道被爆者協会の存在を知らなかった。同会のウェブサイトによると、2020年3月時点の道内の被爆者手帳所持者は248名であった。しかしこれは認定された被爆者数であり、かつて道内各地には多い時で一千人もの(二千人という説もある)被爆者が居住していたと考えられている。彼らはなぜ、遠く離れた北海道の地に辿り着き根を下ろしたのだろうか。

北海道被爆者協会提供
『北の被爆者のさけびー訴訟11年のあゆみ』


今回、お話を伺った同協会事務局次長・北明邦雄氏のご説明と、ご提供いただいた『北の被爆者のさけび−訴訟11年のあゆみ』(原爆症認定北海道訴訟弁護団発行、2011年)に掲載された北海道在住被爆者の証言を総合すると、広島、長崎に投下された原爆によって被爆し、その後北海道に辿り着いた方には次のような背景があったようだ。第一に、1945年8月以降に親戚や身内を頼って北海道に身を寄せた人たち。第二に、就職や転勤、あるいは結婚をきっかけに北海道に移り住んできた人たち。第三に、広島の陸軍船舶司令部(通称・暁部隊)に志願し、勤務中に直接被爆した、あるいは救助に入って二次被爆し、その後に帰郷を許され北海道に戻った青年たちである。彼らの中には、元々出身地は東北など北海道以外であるが、故郷に戻っても被爆による健康被害のために思うように働けず、それによる周囲との確執を苦にして故郷を後にし、北海道に移ってきた人たちもいた。そして第四に、戦後の北海道開拓の労働力募集に応募してきた被爆者たちである。北海道の僻地では、原爆によると思われる健康被害を発症しても、「ヒバク」に対する知識や理解がなく、適切な医療が得られなかったであろうことは想像に難くない。

戦後の北海道には、外地から様々な人々が入植したり、引き揚げてきたりした。北海道被爆者協会のウェブサイトに掲載された言葉を引用すると、その中には、広島、長崎での被爆やそのことによる差別や風評から「逃げて、逃げて、逃げて、北海道に来た」という人々が相当数存在したという事実を、私たちは決して忘れてはならないだろう。

北海道被爆者協会が抱える問題

2024年4月26日、戦後80年となる2025年の3月末で北海道被爆者協会が解散する方針であることが新聞各紙で報じられた。理由は、被爆者の高齢化であり、様々な病気を抱えて事務局会議に全員そろうことも難しく、活動の継続が難しいためとされている。同協会は、道内在住被爆者の交流や相談事業のほかに、地域の学校の平和学習などで被爆の実相を証言する活動を行ってきた。今後は活動が可能な被爆者や被爆二世の方々などで継続する方向性のようだが、彼らの人数は限られるであろう。北海道と国境を接するロシアが戦時下にあり、核兵器使用の威嚇を繰り返している今、被爆とはどういうことなのか、いったん核兵器が使われるとどのようなことが起こるのかを知り、平和の重要性を共有することの意義は高まっている。より多くの人々がこの活動に関心を持つことを切に願う。