被爆の記憶・継承活動と国際政治

大芝 亮(広島平和研究所長)

*この記事は、広島平和研究所ブックレット第9号に掲載されたものです。
ここでは、その一部をご紹介しております。

『平和政策』という本のなかで、藤原帰一は、平和をめぐる日本政治において「運動としての平和」と「政策としての安全保障」という二つの流れがあることを指摘し、冷戦後においては「政策としての平和」を考える必要があると述べた(藤原 2006)。

広島では被爆の記憶・継承に関わるさまざまな活動がなされてきた。それらは多くの人々の心に強く訴え、「運動としての平和」に多大な影響を与えてきた。さらに被爆の記憶・継承活動を通じて核兵器のない世界の実現をめざすには、そこで止まらず、「政策としての平和」を考えることが必要ということになる。いいかえれば、核兵器のない世界に至る道筋を示し、個々の具体的な政策目標の実現に取り組んでいくことが必要だと主張するのである。例をあげるならば、戦後において核兵器が使用されなかった(二〇二三年五月末時点)という事実を指摘するだけでなく、ここから一歩踏み出して、核保有国が核兵器の先制不使用政策を採用するように要請する活動等が必要だということである。実際に始まっていることだが、核兵器廃絶国際キャンペーン(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons:ICAN)等が金融機関による核兵器製造企業への融資がないかどうかを調査し、日本のNGOが日本関連を日本語で公表していることも、一つの道筋を示すものであり、「政策としての平和」の取り組み例であるといえよう。

いまだ微小とはいえ、私はこうした取り組みに大いに期待をしている。そうではあるが、「運動としての平和」もまた、国際政治、特にその流れを形成するうえで大きな影響を及ぼしてきたのではないかと考えている。

本稿では、被爆地(主に広島)を中心とする被爆の記憶・継承活動に焦点を当て、この点について検討してみたい。まず、被爆の記憶・継承活動を振り返る。今日において私たちが目にし、耳にするさまざまな活動は、必ずしも最初から当然のように受け入れられていたわけではなく、そこには伝えようとする営みがあった。次に、こうした活動を通じて、何を訴えることができるのか、私なりに考えてみたい。最後に、こうした活動は国際政治にいかなる影響を与えてきたのかを考察する。

1 伝える営み

広島における被爆の記憶・継承に関わる活動は、長期にわたるものであり、またさまざまな形態をとり展開されてきた。これを整理することはとても私の手に負えることではないので、主に宇吹暁『ヒロシマ戦後史――被爆体験はどう受けとめられてきたか』(第六章「被爆体験の展開」および第七章「被爆体験の国際化と歴史化」)等を参考にしながら、活動の担い手に焦点を当てて、整理したい。

まず、原爆慰霊碑について、米国の占領体制下では、戦前の軍国主義教育との関係から学校関係の慰霊碑の建立には制約があった。この政策は、原爆犠牲者の遺族にさまざまな影響を与えたが、広島市立高等女学校の関係者は、「率先してこれを建立し、平和塔と呼んでいた」(宇吹 2014: 227)。

「原爆の子の像」については、佐々木禎子(幟町中学校一年生、一九五五年一〇月に白血病で亡くなった)の友人たちが、一九五五年一一月に全日本中学校校長会広島大会で、「原爆の子の像を作りましょうと呼びかける手刷のビラを全国からの参加者に手渡した」ことから始まった(宇吹 2014: 233)。現在でも、内外の学校から折り鶴が届けられ、学校で禎子さんの話が語り継がれている。

一九五六年になると、浜井信三広島市長は、平和記念公園内にすでに多数の慰霊碑が建てられているとして、碑の建立規制方針を掲げ、これを実施した。

一九六七年春になると、韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立計画が具体的に始まったが、市の規制により、一九七〇年に慰霊碑は公園外に設置された。しかし、その後、公園外にあることに対して関係者の不満が強まり、一九九九年、碑は公園内に移設された(宇吹 2014:236)。

原爆被害者は新聞、ラジオ、テレビを通じて、被爆体験の証言や手記などを残す取り組みを行った。広島県原爆被害者団体協議会や広島県原爆被爆教職員の会などは証言活動を展開し、被爆者団体による手記集なども発行された。さらに広島平和文化センターは、一九八三年から正式に「ボランティア語り部」による被爆体験証言を行うようになった(宇吹 2014: 269-270)。中学生や高校生の広島への修学旅行が増加する中で、被爆体験の証言・語りは、大きな反響を呼んだという。

広島市は被爆後二年目から平和記念式典を開催した。宇吹は、これを「地方自治体による「平和行政」の先駆的なものである」という(宇吹 2014: 248)。また行政として原爆被災誌や手記集の発行にも取り組み、マスコミも、一九七〇年前後から原爆に関する企画を活発化させ、原爆被害者を対象とした本格的な世論調査などを実施した。

このように原爆被害者を中心に、個々人として、あるいは学校関係者やメディア、そして在日韓国人等の集団として、占領体制や政府・行政の当局と協議し、あるいは対抗し、被爆体験の記憶・継承の活動を展開したのである。

一九五五年以降、被爆の記憶・継承の取り組みは、国際化と歴史化を課題とするようになった(宇吹 2014: 7 章)。

象徴的なものは国立スミソニアン航空宇宙博物館による原爆展示論争である。同博物館は、原爆投下五〇周年を記念して原爆展を企画し、「爆撃機B29「エノラ・ゲイ」とあわせて広島・長崎の被爆資料を展示し、アメリカ国民の間に根強く定着している「原爆投下の正当性」を問い直そう」とした(宇吹 2014: 286)。しかし、全米退役軍人協会を中心に、この企画への反対が強まり、一九九五年一月、スミソニアン協会は被爆資料の展示を取りやめた。

原爆ドームのユネスコ世界遺産登録もまた、被爆体験の記憶・継承の国際化において、いかなる課題があるのかを示すことになった。

今日でこそ原爆ドームは、「人類史上最初に投下された原子爆弾の惨禍を伝える歴史の証人、また、核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いの象徴」(穎原 2016: 6)といわれるが、原爆ドームの存廃論争は戦後直後から一九五〇年代、そして六〇年代まで続いた。そこには、原爆被害者を中心に、これを保存していこうとする人々の営みがあったのである。また、当時は、平和記念公園、平和大通り、平和大橋というように「平和」という文字をかざすことが主流であったにもかかわらず「旧産業奨励館の廃墟は、一九五〇年頃から誰いうともなく「原爆ドーム」とよび習わされるようになる」(穎原 2016: 108)。穎原はこれを民意の反映と考える(穎原 2016: 111)。

さまざまな過程を経て、一九六六年七月に広島市議会が原爆ドームの保存を満場一致で決議し、募金が始まると、保存工事費用を上回る募金が集まった。募金反対派は、募金は原爆ドームの修理よりも、生の身の被爆者と原爆死没者に向けるべきと主張していた(穎原 2016: 174)。

一九九六年に、原爆ドームはユネスコの世界遺産に登録された。しかし、良く知られているように、中国は、日本の加害責任を認めようとしない人びとが、違った目的のために利用する恐れがあるとして、登録承認を保留した。米国は、広島の悲劇を理解するためには、それに至る歴史的視点が欠けているとして、登録決定に不参加の姿勢を示した(穎原2016: 185-187)。長崎市長を務めた本島等は「広島よ、おごるなかれ――原爆ドームの世界遺産化に思う」(初出は『平和教育研究 年報』二四巻、一九九六年)と題する論文において、加害の視点が広島に欠けていると論じた。

さて、原爆被害者の高齢化に伴い、被爆体験伝承者の養成が行われるようになった。また、被爆建物については、改修や建替の必要性が取り上げられるようになってきた。改修・建替のための費用の問題から被爆建物が失われていく状況に対して、市民から保存を求める声も高まった。そこで広島市は、一九九三年、「被爆建物等保存・継承実施要綱」を策定し、爆心地から五キロ以内に現存する建物などを被爆建物台帳に登録している。

被爆の記憶・継承に関わる活動は、いうまでもなく、現在目にするようなことが最初から当然のこととされていたわけではない。なにをどのように伝えていくのか、あるいは残していくのかをめぐり、占領体制や日本政府、そして地方行政の指針と対立するケースもあれば、そもそも市民・集団の間で事象の捉え方に差異があり、そうした市民・集団間で協議し、調整していくケースもある。いずれのパターンが中心となるかは、時期や事例により異なるように思える。

ここで市民・集団間の認識の差異に注目して、長崎にある新興善小学校の被爆建物保存問題を分析した深谷直弘の研究を紹介しておく。深谷は、この問題をめぐり、「校舎」を被爆者のかつての治療の場として見る人々は現物保存を訴えたが、「校舎」をあくまで「母校」として捉える人々は、「再現展示(メモリアル・ホールとしての保存)」を訴え、原爆の記憶は小学校内の行事である献花・慰霊祭や平和学習を通じて受け継いでいくのが良いと考えていたと論じている(深谷 2014: 62)。なお、新興善小学校校舎は解体され、その跡地に図書館が建設され、そこにメモリアル・ホールが設置された。

被爆の記憶・継承に関する広島の自己像は、外国や国内の他地域の人々のイメージと異なることもある。河炅珍はこの点について、他者による「変奏」の結果として受け入れる必要性を指摘する。そして「広島のアイデンティティがその可能性を広げ、さらなる価値を見出していくうえで重要な役割を担うのは他者であり、他者からの/へのまなざしである」と述べる(河 2021: 78)。

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