広島平和記念都市建設法の立案過程

森上 翔太 (広島市立大学大学院平和学研究科博士後期課程)

*この記事は『広島平和研究』9号に掲載されたものです。

はじめに

広島平和記念都市建設法(昭和24年法律第219号。以下「平和記念都市法」という。)は、日本国憲法第95条に基づく住民投票を経て、米軍による広島への原爆投下から4 年後の1949年8 月6 日に公布・施行され、その後の広島の「復興の礎」を築いたとされる。このように広島市にとって極めて重要な意味を持つ平和記念都市法は、誰の手により、また、いかなる構想の下に、一つの法制度として設計されたのか。

平和記念都市法の制定過程に関しては、石丸紀興による研究によって多くが明らかにされており、その中で、平和記念都市法の条文は、当時の参議院事務局議事部長・寺光忠によって立案されたこととされている。この点については、関係者の証言や他の研究においても共通の認識となっている。寺光が起草者であったとするならば、平和記念都市法の解釈を行うに当たっては、上記の住民投票に向けて寺光が著した解説書『ヒロシマ平和都市法』(中国新聞社、1949年)こそが、いわゆる「立法者意思」を示すものとして、重要な資料になると思われる。

また、広島市公文書館(以下「公文書館」という。)には、平和記念都市法の第1次案から第5次案までの五つの草案(資料1 - 2 ~ 1 - 6 。以下「草案①」等という。)が所蔵されている。それらは、寺光によって1986年末に寄贈され、「寺光忠資料」として公開されている。さらに、2012年8 月及び2013年7 月には、寺光が残した資料が国立国会図書館憲政資料室(以下「憲政資料室」という。)に寄贈され、「寺光忠関係文書」として公開されている。

本稿は、これらの資料に基づき、平和記念都市法の立案過程を子細に追跡しようとするものである。具体的には、まず、現存する平和記念都市法の草案の構成や文言を比較することにより、それらの作成順を明らかにする。次に、最初に作成された案(第1 次案)につき、それが本当に寺光によって作成されたものであるか否かを検討する。最後に、草案の分析を通じて平和記念都市法に係る構想の変遷をたどることができることの例として、目的規定及び国庫補助に係る規定を取り上げる。

なお、平和記念都市法の草案に関しては、既に石丸による分析が行われているが、それは、憲政資料室において寺光忠関係文書が公開される前に行われたものである。したがって、本稿は、憲政資料室に所蔵されている一次資料を用いて平和記念都市法の立案過程を明らかにしようとする、初めての実証研究である。

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